PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

どこかで見たような「ダメな議論」


TAKESANさんちのコメント欄で話題になっていたので、野村ホールディングスのWebサイトで以下の記事を見てみました。


金融経済教育について、もっと議論を重ねましょう。
http://www.nomuraholdings.com/jp/edu/


これはひどいですね。悪い議論の見本のようです。個々の方の主張はさておいて、全体としてなにがまずいのかを自戒を込めて書き留めておくことにします。


●具体的な論題が設定されてない
野村ホールディングスでは「経済金融教育支援」ということをやっているようです。ここでの「議論」は、その一貫ということでしょう。


しかし、論者の間で具体的な論題が共有できているわけではありませんでした。たとえば「野村の金融経済教育支援についてどう思うか」あるいは「中学生に株式取引の仕組みを教えることの是非」、はたまた「何歳ぐらいからどんなことを教えたらいいと思うか」などといった話ではないのです。


「議論」に参加している人で、具体例を挙げて是非を論じている人もほとんどいません。記憶に残っている具体的言及は、弘兼憲史アメリカのテレビ番組を採り上げている部分と、「和の法則」「巾(べき)の法則」「有限の法則」について教えてほしいと言っている秋山仁だけです。


これでは、読者が是非を考えるための最初の足がかりが、ほとんどありません。


●脳内のワラ人形について語っている
具体例が挙げられていないためもあって、賛成にしろ反対にしろ、論者が「自分のイメージする金融経済教育」について語っている状態になっています。つまり、「金融経済教育」と名前こそ同じなのですが、実際にはそれぞれ別のものについて賛成・反対を表明しているのです。読者は混乱するばかりです。


インタビュワーは論者たちに、「いわゆる金融経済教育を学校で行なうことについてどう思うか、賛成か反対かの立場で話してくれ」とでもお願いしたのかもしれません。
一つひとつの意見を単独で読むとちゃんとした意見に見えても、続けざまに賛否両論を読むと勝手理論、脳内の捏造論敵、ワラ人形批判の仲間に見えてしまいます。
論者も読者も気の毒な話です。


●ほとんど同意見なのに賛成反対に分けられている
賛成・反対に関わらず「お金についての知識は必要だが、それが最優先なわけではない」「年齢段階に応じた内容があるはず」「マネーゲームを肯定・助長するような風潮は疑問」といった点ではほとんどの人が共通しています。
つまり具体例を挙げず、自分なりのイメージについて述べ合っている結果、「賛成/反対」が形式だけのものになっているのです。
おそらく論者が「賛成」「反対」「条件付きで賛成」などと自称したものをそのまま使っているのでしょう。


サイト作成者は、これを賛成・反対と分けてレイアウトすることを疑問に思わなかったのでしょうか。思ってもどうにもできなかったのかもしれませんが。


●好き勝手を言いっぱなしにしか見えない構成
それぞれの主張は、独立しており、それがほぼ機械的に併記されています。他の論者の主張を参照しながら述べられているわけではありません。しかも、前述の状態なので、それぞれの話はかみ合っていません。


その結果、ここで見られる賛成論も反対論も、どれほど崇高な理念に基づいて語られていようとも、思いつきの言いっぱなしにしか見えません。議論になんかそもそもなりようがないし、説得力も損なわれてしまいます。発言者に対しても読者に対しても失礼な話ですよね。掲載されたものを見て落胆したインタビューイーもいるんではないかしら。


●混乱と徒労感だけが残った
このサイトには、野村の「金融経済教育支援」の内容を説明したページがちゃんとあります。そこへのリンクも左側のメニューにあります。しかしそれが論点ではないので、本文を読んでいてもそこへは誘導されません。
ぼくは2つほどの意見を読んだ後、そのとりとめのなさに混乱しました。それでも、「なにか同じものについて議論しているはず」なので、サイト内検索で野村の取り組みを探してしまいました。で、それを見つけてみたらメニューで再発見するという転倒した体験をし、さらに読んでみたらそれは論点となんの関係もないことまでも再発見したのでした(-_-)


こんなものを読むと徒労感がひどいです。一人ひとりは「いいこと言ってる」と思える人もいるんですが、せっかくの問題提起が空洞化してしまいます。いったんは関心を引いてもすぐに萎えてしまいます。これは、論者や読者だけでなく野村にとってマイナスなのではないでしょうか。


また、なまじ「賛成/反対」なんて書かれているので、こういう(めいめいに自分の意見を表明するだけで、相互に意見をぶつけ合うことはしない)のが議論なんだという印象を持つ人がいるかもしれません。それを考えると、迷惑な話だとさえ思います。


●どうすればよかったのか
いくらでも方法はあったはずです。テーマを具体的に絞るとか、叩き台になる意見について主張し合うとか、座談でも対談でもいいから参加者が相互に意見を交換できるとか、どれであれ現状よりはマシでしょう。リレー形式にして前回の人の意見に意見を言ってもらったりしたら、ちょっと面白かったんじゃないかな。それぞれに好きなように語ってもらうにしても、どんなものを「金融経済教育」だと考えているかを最初に少し述べてもらうとかしてもいいですね(いわば定義をしてから本題に入るわけ)。少なくとも、どれにしてもここまでメチャメチャにはならないはずです。


また、どの論者もおおむね「なんらかの教育は必要」と考えているようなので、「金融や経済についての教育をするとしたら、時期や内容、頻度などをどう考えるか」について意見を述べ合えば、有益な提言が集まったかもしれません。そうやって話を進めれば、そのなかにはひょっとすると「株式でもなんでも、学校でお金についての教育をするなんておかしい」「金融や経済の話なんて、子どもには百害あって一利なしだ」なんていう意見(「金融経済教育に反対」って、ふつうに考えるとそんな類いのことですよね?)も出て来たかもしれません。


企画者は、まずは「金融経済教育の是非」について語り、それから各論に入りたいと考えていたのに、思惑がはずれてしまったのかもしれません。だとすると気の毒だと思わないわけでもないんですが。


あるいは、危ない橋を渡りたくなかったのかな。邪推かな。
万一にも野村の支援あるいは他社のものでも「あれはここがおかしい」なんていう話になられては困る……という事情はあるかもしれません(比較広告は消費者にイヤがられるって言いますしね)。また、とりあえず野村や野村の活動が話題になるきっかけになりさえすればいいという考え方もありそうです。
そんなこんなで、野村自身、今の方法がいいと考えたのであれば、あまり有意義な議論は期待できそうにありません。でも、そんなことではないと思うんですけれどね。甘いかな。


個々のニセ科学について、あるいはニセ科学を批判することについての議論を読んでいると、同じようなことを何度も体験します。教育についてもそうですね。
Web上での議論はそこら辺を制御するのが難しいといったことはあるのかもしれませんけれど、原稿依頼や取材だったら、制御できるはずなんですよね。