PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

何かについての迷路のようなエントリ


がくしゅう(Interdisciplinary 2007年10月13日)のコメント欄で出てきた「ID:u3+C3Zwz0氏が天才過ぎる件」を巡って、頭がぐるぐるしています。


以下、もとはこのコメント(TAKESAN | 2007年10月14日 (日) 11:44)への反応として書き始めたもの(なので、エントリとしては文章が変かも)。ただし、自分ちの直前のエントリ「メモ:知る、わかる、求める、信じる」の続き(てか内容?)っぽいものでもあるし、あまりに個人的関心に走っちゃったし、そんでもTAKESANさんはじめ、TAKESANさんちに集う方々にいぢってもらうと、なんかヒントを得られるかもなどというスケベ根性で、ここに投下してTB。<うわ、身勝手


ID:u3+C3Zwz0氏の芸みたいなの大好きなんですが、どうして「おもしろい」「すごい」と思えるのかを考えると、なかなかすっきりしない私です(^^;;


TAKESANさん、コメントで
>私がよく言う、「論理的ではあるが科学的では無い」、という事。
とおっしゃってますが、例えば下記のエントリなんかもその話題ですよね。


科学的、合理的、論理的(Interdisciplinary 2007年4月 5日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/04/post_9ac0.html


この辺、ボクにとってずーっと課題のひとつになってます。


当たり前ですが論理的整合性さえあれば事実関係を間違わないわけじゃないし、一方で、知識があっても論理的に破綻したような話にハマる場合がある。自分でもなにについて考えようとしているのか、いまひとつ明確ではないのですが、知識と論理性は相補的とかってことだけでは片付かない気持ちがあって。


たとえばSF読みやかつてのオカルト好きはニセ科学やとんでもない言説に、ある種の耐性があるのではないかって話とも関係あるような気もします。先の話のようにID:u3+C3Zwz0氏の芸や民明書房ネタを楽しめる/楽しめないとか、真に受ける/真に受けないってどういうことかとか、B級SF映画をB級ゆえに楽しめるかどうかとか。そもそもアカラサマなフィクションを楽しめるかどうかとか。


考えていると、「ひょっとすると、こんなことも関係してるんじゃないか」なんて風呂敷がどんどん広がって行きます(広げ過ぎという自覚はあるんですが、たためなくなってます・汗)。
「調べる」「知る」ということに歓びが見いだせるか、それとも単にめんどくさいのか。「知る」の先に「わかる」とか「腑に落ちる」とかがあって、そこに到達できることが快感か否かとか。メタな話や大局的な話に嫌悪感を示す人もいる一方で、微視的な話には「些末だ」とか苛立つ人もいて、両方の間の整合性が気になる人と気にならない人がいたり。


やたらに並べちゃいましたけど、そういうあれこれが全部ひっからまってるんじゃないか、という気がして仕方がないんです。もう強迫観念みたいなもんかも。でも、まさに「ひっからまって」まして、全然まとまらないんですよねー(><)


迷路のような……。