PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

「科学」なんだから共有しようよ


このブログには、「科学的ってどういうこと?」というエントリがすでにあります。しかしまあ、このブログも連載も、「科学ってなんじゃらほい」をするようなものだということも当初に述べてるし(「目的とか」)、先のエントリだって中途半端だし、ここらで「世の中では科学とはこういうものだということになっています」ではなく、「自分の科学観」を改めて書いてみることにしました。


「科学ってなんだ」っていうのは科学哲学なんていう学問があるぐらい奥の深い話です。でも、ぼくは学問てものをちゃんとやったことのない人間で。しかし、今日あれこれ考えていて、ちょっと「ああ、おれはこんなふうに考えていたのだ」と気づいたことがあるのです。まあ、言葉を操るのが飯の種の人間ではあっても、学問の素人はこんなふうに考えているのだ、ってなサンプルとしてお読みいただければと思います。


手っ取り早くまとめちゃうと、こんな話。
自分の「科学観」を改めて考えてみたら「共有」がキーワードのような気がしてきた。文系にも高卒にも馴染みのあるものに思えてきた。だったら「みんな、科学で行こうぜ」だな、という感じ。


では、はじまりはじまり。


●科学=自然科学なのか
確かに世間では「科学=自然科学」のイメージが強いです。が、ぼく自身は必ずしもそうは考えていません。これは前から自覚がありました。
ぼくの素朴なレベルの理解だと「しっかりした根拠に基づいて、筋道の立った考察をするもん」が学問であり科学だ……というような感じです。どっかで「学問=科学」みたいに思っているところがあって、少なくとも科学というのは自然科学に限ったもんじゃない。


で、あれこれぐずぐず考えていて気づいたんですが、科学とか学問ていうのは「基本的な訓練さえできれば、その成果を共有できる『共通言語』みたいなもん」だと考えてきたようです(これ、間違ってないですよね? で、重要な特徴じゃないかなあ)。


でも、そう考えると、上記のようなことは自然科学と人文科学、社会科学とかいうときの共通項ではあるのだけど、ただし西洋由来のもの限定、っていうような制約が、ある。いわば「西洋近代科学」が科学なんだ。いま気づいてみると。


これはおやじ(大学で西洋哲学を教えていた)の影響とか、高校から大学のときに読みかじった『ソクラテスの弁明』『空想から科学へ』や東洋哲学の本なんかの印象の残滓(内容はまったく覚えていないので)なんかのせいかもしれません。


●歴史妄想劇場
ちょっと歴史の流れを、自分の印象に基づいて妄想してみます。妄想なので事実とは異なるかもしれないけど、許して。なんで「共有できるかどうか」が科学かどうかの分かれ目で、それは東洋の学問になくて西洋の学問には必要とされたと考えているのかを探り出すためなんで。


「しっかりした根拠に基づいて、筋道の立った考察をする」という点だけをとれば、多分、別に西洋の近代科学に限定されるようなことではないですよね。
きっとかなり古く、古代の誰彼、たとえばこれは西洋だけど、紀元前のソクラテスあたりだって(『弁明』あたりを読みかじった程度ですけど)気持ちとしては同じだったはずですよね。ここら辺までは東洋も西洋も、「考える」とか「考えて、世界の原理を解き明かそう」みたいなところでそんなに変わらない。
だけど「なにがしっかりした根拠なんだ」「筋道の立った考察ってどんなもんなんだ」ということは、時代とともにどんどん精緻化されていった。その精緻化の方向が、東洋ではひたすら掘り下げて行くとか体験・経験を積み重ねるとかいう方向に行ったのだけど、西洋では「ほかの人でも確認できる話になってるか」みたいな方向に進んだ。そういう違いがあるんじゃないか。で、ここが「学問=科学」になり得ず、だけど一方で「自然科学も社会科学も人文科学も科学です」になる分水嶺みたいなことになってんじゃないか。


で、そういうふうに精緻化されて行くと、西洋ではソクラテスの時代のような思考方法ってのは、見直されて汎用化される方向にバージョンアップされていった。なんてんだろ「直観や見識に基づく思弁としてはありかもしれんけど、方法論としては不確かなところ、確認できないところが大杉。もちょっと普遍ていうことや客観てことを、観念ではなくて実態に即して考え直してみんと。そうじゃないと成果を誰とも共有できんよね」みたいなことになってきた。
だから今はギリシア哲学なんかは「科学」とは別物に見えるかもしんない。そうなんだけど、流れとしてはあそこからつながってて、というぐらいの関係はある。


それで、精緻化の過程で、たとえば論理学が充実してきたり、そこら辺をはずしてものを考えることができなくなったり、自然現象(ってことは内心の問題以外のほぼ全部、森羅万象)を扱う方法論として自然科学にも結実して……という感じで「みんな同じスタート地点から来たんですよ。だから、あれもこれも根っこのところで要求される最低線は一緒なんで、それなりに似てます」みたいなことになってる、という感じ。


きっと、こういう印象をもっているせいで、「なによりもまず先に、論理とか考え方を身につけないと。そのうえで、考察が道をはずれないためには、それなりに知識が必要なレベルも世の中にはあって」みたいな思いが、ぼくには根強くあるのだろうとも思います。


あのぉ、進化論についての勘違い素人向けのツッコミに「猿が進化して人間になったんじゃなくて、猿と人間は共通の祖先から進化したんだよ」っていうような話がありますよね。最近、この話にからんで、なんか似たような図式を思い浮かべたりしてます。「自然科学から社会科学が生まれたんじゃないの?」とかいうような話もどっかで見たんですが、そういうどっちかからどっちかが出て来たんじゃなくて、「どっちも同じ先祖から来てるんじゃないの」みたいな(あの科学もこの科学も、という点でも、東洋の学問と西洋の学問という点でも)。


あー今は関係ないかな。すいません(汗


●学問=科学でもない。共有可能かどうかが鍵
まあそんなわけで、東洋哲学だとか東洋医学なんかは、ぼくは科学だと思ってないわけですよ。さっき改めて気づいたわけですけど。


いや、繰り返しっぽいけど、東洋哲学やなんかだって、ソクラテスなんかと同じような感じで根拠と論理を重視していたと思うんですよ。だけど、今となっては別の文脈でしか語られ得ない(もちろんこれは方法論が間違っているとかそういうことではないんだけど)。おそらくは前述の「共有」に関する意識が決定的に違っていて、それは「普遍とか客観とか」ってあたりで(つまりかなり早い段階で)違う道を進んできた経緯があるから……だとぼくは考えているようです。


これも印象に基づく偏見かもしれないんですが、東洋に古来からある学問では、武術なんかと似たような「個人の取得した知見はどこまで行っても『その人個人が体得したもの』」なんていう感覚がないですかね。だから、たとえば一見すると同じような「あるレベルに達さないと共有できない」というようなことを言ってても、その意味が西の世界での「知識や技術の高いレベルでの取得」とかとは意味が違うみたいなことが起きる(ソクラテスの時代とは似てるような気はするんですけどね)。
しかし、そういうものは、ぼくは科学だと考えていない。むしろ、だから「科学」との流儀の擦り合わせだって簡単にいかないのねえ……みたいに考えているようです。
まあ、そんなわけで、東洋哲学とか東洋医学とかは、学問ではあっても科学にはならないのではないか、となっちゃうわけですね。


で、まあ西洋由来と切り分けちゃったけど、そういう「科学」っていうのはかなり敷居の低いところで共有可能な方法論だと考えているわけですよ。
あ、そうは言ったって、あるレベルから上の話は、それなりに訓練も知識も必要です。でも、それは「悟りを得る」とかいうのに似たような「理解レベルの飛躍的な発達」みたいなことを、必ずしも意味しない。
よっぽど最先端の、世界中でまだ数人しか理解できていませんみたいな理論であれば、近いところがあるかもしれないけど、それもいろいろ追試されたり検証されたりするうちに共有できる知見になっていく。


たとえば相対性理論って、そうだったじゃないですか。ぼくが子どもだった60〜70年代あたりは、「ちゃんと理解できている人は少ない」とか言って「究極奥義」みたいな触れ込みだったんですよ。だけど、80年代になって大学に物理学徒として職を得た友人(ってきくこま博士ですが)に聞いたら「学部生で理解できてないと先へ進めない」なんていうレベルになってた。そういう底辺(というには上の方だけど)へ広がって行ける「共有化可能な知見」という構造を、科学っていうのは常にもっているんじゃないんだろうか。


●なんで今こういう話か
実は、これを書くにはちょっときっかけがありまして。ここ数日「どこまでも」(Interdisciplinary 2008年1月18日)のコメント欄で「科学観」が話題になっているのですよ。追加エントリで1年ほど前の「科学」(2007年2月13日)っていうエントリが紹介されるわ、っていう盛り上がり(ちなみに、このエントリの広辞苑からの抜粋、便利ですよ、勉強になりますよ)。
で、ぼくもコメントしようと思ったら、例によって長くなり、さらにあっちでは問題になっていない部分も盛り込みたくなったのでここに投下した次第なのでした。


で、その科学観で盛り上がっているコメント欄で、脇筋だったんだけど「なんで文系出身者は『ぼく文系なんでそういう科学とかの話はわかりません』とかいう言い訳をしちゃうのか」を書いちゃった。こんなの。

>文系・理系のイメージは、大学の卒論の書き方から来ているんだと思います。


それもあるのかもしれませんが、ぼくは「高校の進路指導」、とくに進路別クラス分けと、ぼくが行っていたような三流私大での文系学科のぬるさが「わし文系だから難しいことはわかりませんねん」というような自己卑下的弁明を生んでいるのではないかとにらんでいます(どっかで、同じようなことを書いている方もいましたが)。


言うまでもないような気もしますが、少なからぬ数の私立高校で「国公立志望クラス」「私立理系志望クラス」「私立文系志望クラス」といったクラス分けが行われ、しかもそれが成績順と同義だったりします。つまり、数学や物理・化学・生物等々を受験科目にできる人とできない人というのが、勉強ができる人とできない人の違いと認識されるわけです。


また、20年ほど前の三流私大の文系学科では、卒論提出の義務がなかったり、学問的訓練と言えるようなことは、ほとんど行われない例さえ少なくありませんでした。自分のいたところだけではなく、他大学の卒業生で「同じ同じ!」と言う人も、一人や二人ではなく、会ったことがあります。
原書購読もろくにせず、ゼミで岩波新書の輪読をしていたり、定期試験では記述式の設問も出ますが、事前に問題をある程度示し、ノートや教科書が持ち込み可だったりするので、講義に出ていさえすれば単位が取れると言っても過言ではなかったり(そういえば、スーダラな大学ほど一般教養でも出席点を重視する講義が少なくなかったような……)。
調べたことはありませんが、かなりの数の私大で同じような状況だったのではないかと推測しています。


こうなると、高校から大学にかけて、受験期を除けばほとんど勉強らしい勉強なんかしていないわけです。自分なりに読書などして考えるとか、自分から先生や勤勉な先輩に食い下がったりした経験もしないままに学部卒で終わってしまえば、そりゃあ「難しいことはわかりません」なわけです(実のところ、そういう知人がそれなりにいます(-_-))。


あ、あわてて補筆。
ぼく自身は学部卒どころかドロップアウトしちゃった人間なんで、自分を棚に上げた話です(汗


あと、いくら三流私大でも、学科によっては文系でもそれなりの訓練はされていました。特に、その大学の看板学科みたいなものが実証科学的な性格をもっていた場合に顕著だと考えています(というか、在籍している教員のスキルないし性格によって、なのかもしれませんが)。
たとえば某大は文学部のとくに歴史学が伝統的に看板で、史学科では文献史学を徹底的に叩き込まれ、考古学科で発掘にあちこち引き回され、別の某々大学では心理学科に名物教授がいて学生を被験者にした実験ながら統計からなにからかなりしごかれ……ただし、ほかの学科はそういう厳しさはなーんにもない、なんていう具合です。


また、ある程度の鍛えられ方をした人たちは、謙遜することがあっても「学部卒で院には進まなかったから、とても学問をしたとは言えない」なんていう調子で、「文系だから」なんていう卑下はしないことが多いという印象をもっています。


ちなみに、「理系や芸術系の鍛えられ方と比べると、しょせん文系はぬるい」などと考えている文系学部出身者は一定数いるだろうと思います。しかし自分の周辺で考えると、それはまあ個人個人の感じ方ってやつで、例外扱いしちゃっていいんじゃないかと。頑張った自覚がある人はプライドもありますんで、思っていてもなかなかそうは言わないですね。

これは、「ぼくは学問をちゃんとやったことがない」と言う代わりに「高校で私立文系クラスだったんで」とか「大学でスーダラな文系学部だったんで」という意味で「文系なんで」と言っているのだという解釈。
少なくとも、こういう高校生活、大学生活を過ごした人って、そんなに少ないわけもないだろうと考えているんですが、どうですかね。


で、どうしてこれを持ち出したかと言うと、こんなふうに考えたから。


大学まででそこそこ勉強していれば、少なくとも『根拠に基づいて考える』『成果を第三者と共有できる(言語化できる)』ということは、文系でも理系でも関係なく身に付いているはず、その面では「科学的」ってことは、理系だろうが文系だろうが関係ないはず。だけど、正直に言ってしまえば受験などの試験勉強以外はろくに勉強したことがない、っていう人は、学部を卒業していても「科学的」というか「ちゃんと考える」ということを身につけていないどころか、それがどういうことなのかを知らない(ぼくも知らなかった)、ということなんじゃないのか。


だけど、もしもそこに思い至れば、「科学って、ああ、そういうことだったのか」となるんではないのか。
そうやって来し方を思い返してみると、こういう「根拠に基づいて考えようよ」とか「筋道を立てて考えてみよう」とか「成果を共有しようよ」というのは、言葉こそ違うかもしれないけれども、幼稚園だの小学校の頃からずーっっとやってきていることだったりもする。
だったら、「ああ、おれ、その科学だったら入口まで行ったことあるわ、まるっきり知らない話ってわけでもなかったんだな」となるんじゃないのか。


●科学って民主主義とよく似ている
そんで。
ぼくは、科学も民主主義も根底では同じもんだと考えている。どこが同じなのか。論理的整合性や根拠を重視すること、成果を共有することを重視すること、共通言語を育むことで「いっしょに考える」ことができる状況を目指し、実際に一緒に考えて行くことを目指していること。


ね? かなりかぶってるでしょ?


ぼくは民主主義が最高の手法だなんて考えていない。科学が絶対だなどとも考えていない。しかし、今のところどちらももっともマシな手法なんじゃないか。単にほかに代わる手法は見当たらないんじゃないか。そう考えている。


そうだとすると、科学的なものの考え方というのは、なかなか間尺に合っていて、実際に物事を進めるときに便利で重要な指針となるはずだ。であれば、「ぼく文系だから」とか「学問をちゃんとやっていないから」ではなくて、せいぜい科学的にものを考え、科学的にものごとを進めようではないの。


全然知らないよその世界の道具の話じゃないんだよ。
空気のように当たり前すぎて忘れていたけど、意外にずっと使ってきている道具じゃないか、それってこれからも使い込んでいくしかないんもだよな、って気に、なりませんか?


もしもそうなら。
文系だろうが、ぼくのように高卒だろうが、「いっしょに科学でゴー」で、よろしいのでは? なにか、そこに問題が?