PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

学校教育になにを期待するか


書籍『信じぬ者は救われる』、本日発売(らしい)」のコメント欄で、田部勝也さんから、こんなコメントをいただきました。

>少なからぬ人たちにとって、「信じる」と「信じたい」とが同義語なのだ。あるいは「信じたいこと」と「事実」が同義語なのだと言ってもいい。


自分は、その事にずっと問題意識を持っていて、そのために理科教員を目指し、実際になりました(辞めたけど)。自分自身は、そういう「少なからぬ人たち」がいるのは、理科教員としての自分のせいだという職業的な自責の念に、ずっととらわれています。自分が、こんな「少なからぬ人たち」を育ててしまったという、原罪に近い罪悪感と言っても良いかも知れません。


それで、前々から書きたいと考えていたことを、思い出しました。「ぼくは学校に期待していない」ということと、「PISAの結果って、ちょっとすごい」ということ、そして「その結果を出したのは、現場教員だ」ということ。
それをちょっと書いてみます。


■ぼくは学校に期待していない
そもそも学校というものにほとんど期待していない自分にはっきりと気づいたのは、上の子どもが小学校2年生になって、参観日の後で家内が「あれって学級崩壊なんじゃないか」みたいなことを言い出したあたりでした。


ぼくもその授業参観には行っていて、「うわ、なんだこりゃ、ひでえなあ」とは思ったけど、「あんな指導じゃダメじゃないか」とか「学校はなにをしてるんだ!」とは思わなかったんですね。いや、初任者の教員は「余裕がないなあ、あれじゃダメかもな」とかは考えたし、その初任者にまかせっきりなんじゃないかという危惧はもちました。で、カアチャンの求めに応えて手紙は書きました。「保護者にもなんかできることがあるだろうから、一人で抱え込まないでくれ」とか「学年で問題を共有できているのか」とかっていう内容。それを担任の先生に出しました。
でもまあ、こういうのは「社会現象」みたいに思っていて、「うちの子が」みたいなことは思わなかった。なんでオレはカアチャンやよその親みたいに「うちの子が」と思わないんだろうと考えてみたら、そもそも学校にあんまり期待していない自分に気づいた。そんな流れがあります。


ボランティアだ学校評議員だなんだで学校に出入りするようになってから、さらにハッキリしました。学校について「はあ? なにそれ?」と思うことはあったけど、それは例えば「こういうことをやるって決めたんでしょ? だったら、その対応はおかしいじゃない。ボランティアで参加しようと考えていた親たちが失望するよ、担当の教員が消耗するよ、それでいいの?」というようなことで、「オレがイヤだ」も「うちの子が」もほとんどなかったんですよ。
無私なんじゃないんです。めんどくせえなあ、とか、引き受けるじゃなかったかなあ、なんてことは、考えるんですから。子どもがかわいくないわけでもありません。彼らの抱えている問題には、ちゃんと対処しようとしてきたつもりです。
でも、そういう「ウチ」がからむシーンでは「学校がダメだ」とは、ほとんど思ったことがない。「先生の、その対応はオレもおかしいと思う」とかってことはあるけど、しょせん、先生ってふつうの大人だし。学校って、そういう人の集まりだし。


■なぜ期待していないのか
期待しなくなったきっかけは、おそらくは、自分の子ども時代の負け惜しみ(受験の度重なる失敗(^^;;とか)みたいな感覚などが影響しているのだろうと思います。その後は、社会に出てから「世間って」とか学んだこともあるんですけど、会社員時代も「取引先が変なことを言う」なんて愚痴に対して「ああ、版元ってアホが多いからねえ」なんて平然としてた。部下だった当時のカアチャンに「理不尽から部下を守るのも上司の仕事だろう」と指摘されるまで、「相手(取引先)はアホなので、道理を期待しても始まりません」と本気で思っていた。最悪の管理職ですね(汗)。
学校も、同じだと思っていたようなところがあります。


ポストモダンとかニューアカとか」で、自分がぜんぜん勉強しなかった話をちょっと書きましたが、いま振り返ると、勉強することというか、調べたり考えたりそれをまとめたりすることは、子どもの頃から全然苦にならない。というか、むしろ大好きだったんです(覚えるのは嫌いでしたけど)。
今もそうなんだろうと思います。日常化していて、特にそれがうれしいとかってことはありませんけど、するなと言われたら苦痛だろうなあと思います。編集者だのライターだのという今の仕事は、そういう意味では天職だと言われることもあります(これはつまり、ぼくが「人よりも抜きん出た成果を残せている」とは、ぼくも周囲の人間も思っていないわけですね(^^;;)。


勉強嫌いで、宿題もろくにやらず、学校にうまく適応できなかったようなところがあるけど、自分の「学校に期待しない」が教員のせいや学校のせいだとは、ぜんぜん考えていません。いや、学校に責任転嫁して考えていた時期もあったと思いますが、少なくとも今はそうは考えていないんですよ。「あんなもんだ」と思っています。
ていうか、いまは逆です。


PISAの結果って、ちょっとすごい
100人のうちの60人も70人もが、それなりの市民に求められる識見(あるいは、その素養)を備えていて、残りのうちの大半もそれに近いレベルに達している。それが、3度にわたるPISAの調査結果だとぼくは認識しています(詳細は「PISAが測っているのは「学力」「応用力」ではない」に書いたような気がします)。無回答の割合とか、その「残り」の「残り」が増えているとかいう問題がないとは言いませんが、これは、現状だってものすごい成果だ、ほとんど奇跡的と言っていい達成度だと考えています。


だって、たとえば「証拠に基づいてものを考える」なんてことを、どれぐらいの大人ができていますか? いや、できていなくても「そうあるべきだ」と考えている(はっきりと理解している)大人が、どれぐらいいるでしょう? 少なくとも8割近いなんてことはないんじゃない?
学校に期待しないなんて言っているボクがいうのもおかしいですが、「学校で得た知識なんて社会に出たら役に立たない」なんて言っている大人が、同じ口で「勉強しろ」とか言ってるのに、どうしてこんなにたくさんのちゃんとした子どもが育ったんだろう、って不思議じゃないですか?


■すごい成果を出したのは、現場教員の努力だ
これを達成したのは、指導要領でも学校の運営方針でも教育評論家の意見でもなく、無名の教師たちの営々たる努力だと確信しています(ということを、先日同窓会みたいな席で、無気力に陥りそうになっている教員=同期生たちに向かって、半べそをかきながら力説してドン引きされました)。


文科省や教委が理不尽で無意味なお題を学校に持ち込んでも、それをなんとか有意義なものに変質させて教室で展開しようとしている教員たちを、何人も見ました。カリキュラムがアホアホなことになっても、エラいさんが客受けをねらって余計な仕事を増やそうとも、子どもたちが教室で過ごす時間をアホアホなものにしないために必死になっている教員たちが、8割とかの「まっとうな市民」予備軍を育てたんだと考えています。


そりゃ「ちょっとどうなの?」と思うような教員もいますけど、まともな親だってまともでない親だっているんだし、子ども同士の影響だってバカにならないし、近所をうろうろすればアホな大人にも素敵な大人にも出くわします。「どうなの?」な教員が義務教育の9年間をずっとくっついてくるとでもいうのでない限り、希釈されるんですよ。そうでもなきゃ、PISAの結果の説明がつきません。


義務教育の教員が9年間かけて育てて来たものを、社会に出る前後の数年で白紙に戻し、さらに「考えるな」にしてしまうのが、世間の多くの大人たちだ、そういうことなんじゃないでしょうか?


■学校が担うものは、もっと限定的でいい
ぼくは今も「別に学校になにかを期待していない」というスタンスを崩していません。口ではそう言います。だけど、こりゃ標語みたいなもので、よくよく自分の胸に手を当てて考えると、ぼくが言いたいのは「学校依存症になっちゃダメだ」ってこととか、「学校の役割を、もっと限定的にすべきだ」ということです。


教員がせいせいと呼吸できない学校で、子どもたちがせいせいと呼吸できるなんてアクロバティックなこと、長く続くわけがないんだ。教員に過重な責任を求めるべきではない。
プライドのある先生方には、そんなこと言われたくないという思いもあるかもしれません。けど、学校が(いや、ほかのなんでもそうだけど)すべてを背負うことなんか、できない。それなのに、学校は人間育成のすべてを背負わされようとしている。80年代あたりから、全人教育に向かい続けている。


教員の多くが善良なために、そのほうがいいと思わされているのかもしれません。でも、ぼくは違うと考えています。「学校ができることは限定的なんだ」ということでいいんです。ただし、そのことを(そして、どういうことしかできないのかを)、できるだけみんなが知っていないければならない。
もっと言うと、「親ができることは限定的なんだ」「人間ができることは限定的なんだ」「他者に期待できることも、自分に期待できることも、人生に期待できることも、すべて限定的なんだ」ということを、みんなが知っていなければならない。


小学校の教員が、ちゃんと教材研究に時間を割くことができて、個々の子どもたちと向き合う時間をふんだんにとれたら、『水からの伝言』なんかに頼って「言葉遣いの改善」に即効性を期待するなんてことは、思いもしなかったんじゃないでしょうか。


過剰な期待や過剰な責任感は、結局のところ自分を(あなたを。あらゆる人を)苦しめるだけだ、そう考えています。