PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

読者・コミュニケーション・論評など


はてブにコメントを書くぐらいなら、コメント欄にコメントを」とか、「アクセス数やブコメの数の割にコメントが少なかった」とかいう話を、定期的に目にする。なんとなく、「勝手にリンクするな」というような主張や、「ネガコメ」などという分類方法、あるいは批判と非難の区別がつかなかったり、すべての批判は人格否定だと思っているらしい人がいることとも、どっかでつながっていそうな匂いを嗅ぎ取ってはいるんだけど、どうなのかしら。

■「数」同士の相関は、ありそうに見えても、多分ない

MLや掲示板なんかでも、頻繁に発言する人の数はごく限られているって話は以前からある、以前、編集工学研究所の人と話をしたときには「アクティブメンバーは1割ぐらい」なんてところで、およその感触としては同意できた。はたまた書籍や雑誌などの読者カードを送ってくれる人は「特殊な読者」だとかいう話もある。特に、景品などの見返りのない読者カードは、もう販売部数に対して1割どころじゃない。ずっと少ない。懸賞の応募なんかを兼ねていても、3万部の月刊誌で数百とかだったりするもんね。リアクションは独立したアクションよりも敷居が低いかもしれないが、それでも何かに対して具体的なアクションを起こす人というのは、基本的に「すごく少ない」のだろう。


記名・無記名みたいなことも、リアクションの数や質と関係があるだろうなあとは思うけど、本質的というか決定的な違いになるのかというと疑問だ。コメント数:アクセス数:ブコメ数:TB数って、おそらく相互にはなんの関係もなくて、内容次第、運営方針次第、読者の感じ方次第なんだろう。手軽でも「リンクをクリックする人は1割の法則」なんていう話もあり、はたまたアクセス数の割にコメント数が多いサイトもあり、一概にどうこうは言えないに違いない。

■目的の多様さ

論評しようとしていても、別に発信者そのものは眼中にない場合もあるだろう。仮に発信者に対してリアクションを「伝えたい」という場合であっても、発信者とコミュニケーションしたいとは限らないだろう。


発信者が読者とコミュニケーションできればうれしいというのはわかる。せめて感想を知りたいという場合に、思いがけない感想を知った後のことまでは考えがおよばないということもあるに違いない。

■場のとらえ方の多様さと限界

たとえばWebは合評会に似ていても合評会そのものではないし、コメント欄は読者欄に似ているかもしれないけれども読者欄そのものではない。同じように使うことができても、違うようにも使うことができる。ある合評会には、独特な作法があるかもしれない。雑誌Aの読者欄と雑誌Bの読者欄には、同じような作法が適用できるかもしれないが雑誌Cには違う作法があることもある。世間に共有されている部分があるとしたら、合評会や読者欄ってふつうこうだよねと言うことはできるだろう。でも、よそはこうだから、ここもこうしろと外から言えることには限界がある。技術的・原理的に可能なことは、やろうとしたらできてしまう(それを世間が受け入れようと受け入れまいと)。


雑誌などの読者欄といったものは、発信者が読者の声(や、それに対する発信者の反応)をほかの読者にも見せたいと思った時に作られるものだと思うんだけど、最初からコメント欄が用意されているブログなんかでは、そういう「判断」が働かないってことも関係があるんだろうな。所与のものは、活用したいのに使われないならばその理由を考えないといけなくなるのだけど、そういう習慣がなければ、なんか明後日の方に頭が働いてしまうということもあるに違いない。

■読者をコントロールすることはできない

しかし場をある程度コントロールできたとしても、反応そのものをコントロールすることは、ほとんどまったくできない。数も質も内容も。発表するものが、かなり配慮の行き届いた内容と表現であったとしても、一部しか読まないで反応する人までなくすことは困難だろう。


読者からの、対話に発展させることがかなり困難な一方的な意見表明まで歓迎できるかというと、きっと発信者の資質による。それを読むだけならまだしも、それに対しても自分が具体的にアクションを起こさなければならないとなると、勘弁してほしいという人もいるだろう。商売メディアの場合だって、無反応あるいは「ご意見ありがとうござます」で済ませてしまうことは少なくない。いわんや個人のブログなんかでは、よほど無様な反応でもない限り、責めては気の毒だろうなあとは思う。「ごく少数の、自分のブログなりWebサイトなりを訪問する、限られた人に向かって」のつもりで書いたものだって、あるとき突然「すべての文脈を離れて、大勢の人に読まれてしまう」ということが起き得る。そうしたときに意図しない反発を買うこともあり、それにうまく対応ができないことがあったとしても、なんというか「当たり前」のように思える。

■「コントロール不能」を受容できない問題

「いったん発表されてしまったものは、必然的に発信者の手を離れてしまう(好むと好まざるとを問わず)」ということを受け入れられるかどうかという違いは、おそらく「リアクションをコントロールしたいという欲求」だとか、それができないことに、無力感やいらだちを感じてしまうかどうかといった反応とも、なにがしかの関係はあるだろう。


「表現する」ということが「発表する」という行為までは含まないのであれば別だけど、それって「誰もいない森の中で木が倒れた。その音を聞いた人はいない。音はしたのか」みたいな話で。「死ぬまで公表するつもりはなかった」という作品が、たまたま人目に触れてしまったら、悔やむのか喜ぶのかいずれにしても、そうなったら、もう事態は勝手に転がるのだ。もちろん、悔やむのも喜ぶのも勝手だし、それを公言するのも勝手なのだが、そうした感想だって論評もされれば黙殺もされる。


そういえば、人目に止まらないとか目に止まっても黙殺されるということだって、広い意味では反応であり評価なんだよな。「みんな読め」「読まないと危ないぞ」って言ったって、説明書や契約書でさえも読まない人はいる。そこを諦めては発信者としてはまずいのだ、読んでもらえるように工夫すべきだとは言えるかもしれないけど、工夫が成功するとも限らない。自分がやることだって、そんなふうに「完全にコントロールすることはできない」のに、なんでまた他者をコントロールしたいと思うのか。きっと人間の基本仕様として、なんかあるんでしょうね。

■じゃあどうなるのか

とはいえ。じゃあ、変な悶え方をしている人を見た時に寛容でいればいいのか。「それはたぶん」と説明を試みればいいのか。WWWという発表手段を手に入れて、まだ20〜30年、かなり多くの人が使うようになってからは10年足らずかな? 読む側から書く側に回る人の数が爆発的に増えたのはブログ登場以来だとして5年ぐらい?


日の浅さを考えると、今はまだ定まらないにしても、そのうちにはなんとなく落としどころがなんとなく決まっていくのかしらね。


もっとも、いつだって、異論のある人や新しく使い始める人はいるわけで、そんときは議論をしたり、先行者(笑)が「それまでに培われた知見」でもって諭したりするしかないんだろう。反発されたり感謝されたり迷惑がられたりしながら。


ということはこれからも今と変わんないわけか。それともなにかが変わるんだろうか。


うーん、事例が増えると目立つ。限定的な少数の間で行われることでなくなった以上は、共有される知見(マナー?)も減る。揉めることも増える。法律の出番だとは思わないけれど、そう言い出す人もいるのだろう。クルマやバイクの数が増え、事故が増えたら運転に免許が必要になったように、そこで起きる事態が「看過できないもの」だとみんなが思うようになれば、止められないのだろう。


イヤだけど、できることが増え、やれる人が増えると、ある閾値を超えたら法律が必要になる、と言われちゃうのかもしれない。