PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

加計呂麻島がハゲ山の島に?──奄美3題


昨夜、驚いた話。加計呂麻島に開発話が持ち上がっていて、その話がまた珍妙だということ。

実は、少し前から気付く人は気付いていたらしい。


この件、まだ情報がぜんぜん足りていない。twitterでもハッシュタグ#savekakeroma」で情報交換がされている。


開発の是非はいったん脇にどけて、こういう「住民には寝耳に水」という話が、いつまでも起き続けていることに胸が痛む(この十年足らずのうちに、うちの近所だけでも二度出くわしている。一回は行政による教育改革、もう一回は駅前の不動産開発)。しかも、「徒然なる奄美|加計呂麻島、激震!!木材チップ工場建設へ!島の半分がハゲ山に!!」で紹介されている業者の言葉を読む限り、業者は説明の必要も議論の必要も感じていないらしいことだ。というか、twitterで「あまり知られてないことですが,私有地だらけの島って多いのですよ。」と教えてもらって気付いたが、厳密には「それが必要な相手(おそらくは地権者)にはすでに説明して了解を取った。ほかの人にも説明が必要とは考えていない」という認識なのだろう。


しかも、駅前再開発などというせまい範囲の話ではない。島の面積の半分にも及ぼうかという森林伐採の話だ。しかも真水の確保や生態系の維持にはかなり神経を使う離島でのことだ。環境アセスメントもろくに行わず、地権者だけの了解でなんとでもなると考えていたのだとすると面妖な認識だと言わずにはおれない。


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先週は、奄美群島についてテレビのニュースでも目を疑うような話に触れた。普天間基地の移設先として徳之島が候補地に挙がっているというのだ。

奄美と沖縄(琉球)や日本(鹿児島)の「距離」や抱えるものについては、とてもぼくが書き切れるようなことではないけれど、ニュースを知ったときに去来した思いの一端だけでも書き留めておく。


第二次大戦後、奄美群島は沖縄とともに米軍統治下にあった。沖縄同様、日本本土と分断されていたわけだ。1953年(昭和28年)12月25日、沖縄よりも約10年早く返還されたが、それによって今度は沖縄と分断されることになる。沖縄で奄美出身者は強烈な差別にさらされることになる。沖縄に出稼ぎに行っていれば家族が分断されたりもしただろう。奄美群島の南端である与論島からは沖縄本島が見える。まさに踵を接する位置にある。


なんというか「沖縄と奄美の、それを知っていての狼藉か!?」といったような感情があった。統治下にあったときに米軍の施設が徳之島にあったかどうかは知らないし、それが問題になるとも思わない。ぐたいてきにどう踏みにじられたことがあるかではなく、いかにもなご都合主義を感じてしまったのだ。


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いっぽうで、奄美のアンテナショップ的な話題も。

「なちかしゃ屋」の名は、以前もどこかで見たような気がする。


そういえば、山川さらさん(あまんゆ『奄美の島々の楽しみ方』)が、お店(あまみショップ&カフェ)兼新しい住まいの候補地を秩父に見つけたと言っていたような。久しく会っていない。元気かしら。


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離島にどのような問題があり、どのような喜びがあるのか、住人と専門家以外には、島ファンというか島マニアみたいな人(いるんですよね)ぐらいしか知らない。ぼくも奄美の本を一冊編集したけど、だから「知っている」などとはとても言えない。


「知られていない問題は存在しないのと同じだ」と言ったのは誰だったか。その当否はともかく、その伝では「知られていない人や土地、文化は存在しないのと同じだ」ということになるか。今はまだ、類型としてさえ理解されにくいのが離島なのだろう。「議論に輪郭を与える」という表現もある。いまはまだ、その段階なのかもしれない。


実のところは類型として理解することにも危うさがある。「地方」に共通する点も少なくない一方で、個々の問題としか言えない点も少なくない。それどころか、「奄美群島とひとくくりにして語ってくれるな」という思いだってあるに違いない。総論と各論という一対一対応で済む話だけじゃなくて、連綿と続く入れ子のなかに位置づけて、それぞれに名前を与えないと、ぼくらはうまく考えることさえできないんだと思う(入れ子を追い続けてもキリがないのだけれど)。


広く知られると、その途端に像がゆがめられてしまうということもあるに違いない。くっきりとした輪郭を与えられると、途端に見えなくなる細部もある。声を出すにしろ、読み聞くにしろ、問うにしろ答えるにしろ、なににつけ、いろんな角度やら深さ、広さがあっていいんだろう。それに触れて、深まったり広まったりすることもあるに違いない。だからどうしようって話でもないのだけど、多くの人がそういうもんだと思いながらあれこれを見ていられれば、本筋と違うところで憤慨したりビビったりすることは減らせるのかもしれないよな、などと思う。