PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

2つの「正しさ」とニセ科学


以前のエントリ「【種】新書で「実用としての哲学」に触れる」で触れた小林和之「おろかもの」の正義論』(ちくま新書)に、「事実としての正しさ」と「規範に合致するという意味での正しさ」という話が出てくる。通奏低音のように全編を貫いていると言ってもいいかもしれない。そこを切り分けられないと議論が混乱する、という話が前提として語られ、脳死・交通事故死・死刑・選挙・環境問題などさまざまなレイヤーの議論で繰り返し注意を喚起する。


この知見をニセ科学批判ならびに「ニセ科学批判」批判に持ち込むとどうなるか?


自然科学畑のニセ科学批判は、基本的に「事実としての正しさ」の話だろう。自然科学が規範に関する正しさを論じる場合、「自然科学という規範」との整合性をしか扱わないのではないか。つまり「ある事柄が起きるという主張があるが、それは事実ではない」という指摘までしか自然科学は扱わないし扱えないという理解だ。


これは自然科学という文脈(方法論?)が最初から持っている限界とか制約と言ってもいいかもしれない。
「自然科学に道徳の根拠を求めることができるか」という命題は、まさにこの問題だろう。自然科学は「自然科学の規範」以外の規範についての正しさを問うことができない(そういう問題設定ができない)、自然科学は道徳を扱う能力を持っていないのだ。その意味では「自然科学に道徳の根拠を求めるべきではない」と言ってしまうと主旨が違ってしまうかもしれない。


人文科学の場合、事実を扱う学問領域と規範を扱う学問領域(あるいは両者をともに扱う学問領域)がありそうだ。哲学や倫理学はまさに後者だろうし、法学も両者を扱わないわけにはいかないだろう。
ニセ科学批判がある事例を採り上げたときに「これは、自然科学の問題だけではない」といった指摘が加えられることがあるが、この場合、前述の区分とちょうど整合する2つの意味が生じていると考えることができる。「他の学問領域(主に人文科学)の問題だ」という場合と、「事実認定の問題(だけ)ではなく規範と合致するか否かという問題だ」という場合だ。


ニセ科学批判」に対する批判や反論には、この区別が混乱しているケースがある。
たとえば「それが科学ではないとしても、それを信じることで気が休まるならよいではないか」といった主張はひとつの典型だろう。「事実かどうか」を問題にしている主張に対して、別のレイヤー(あるいは筋違い)の議論で返しているわけだ。
また「自然科学は不寛容だ」という主張の誤った引用も同様だ。自然科学は、「自然科学の文脈で語られる主張=事実認定がからむ問題」に対してのみ不寛容なのであって、「自然科学の文脈を逸脱した主張」に対してはノーコメントだ。たとえば「合理主義は人としてより望ましい選択か」といった問題について自然科学は答える術を持たない。


主なニセ科学批判者は両者の区別をつけているように見える。たとえば「事実として間違っているというだけでなく、道徳としてもおかしい」という主張は、問題を切り分けているからこそ可能な批判だ(不本意な綱渡りなのかもしれないが)。
それでも「ニセ科学批判」にも、同様の危険はあるかもしれない。特に反論への反論(あえていえば「『ニセ科学批判』批判」批判となろうか)の際に起きやすいかもしれない。


現実に起きている事柄は、常に両方の「正しさ」の問題を含む。したがってニセ科学批判も両者を問題にせざる得ない。実際、ペアで指摘されるケースは少なくない(そのために、自然科学ではない問題までを自然科学の問題として扱っているかのように誤解されるリスクがついてまわる)。
また「ニセ科学」という問題設定は、ネーミングの面からもターゲティングの面からも、自然科学に限定した問題設定に見えてしまうところが悩ましい。「規範としての正しさ」の問題が抜け落ちているかのように見える危険性があるからだ。


そうであれば、規範としての正しさについて、人文科学あるいは「市民社会におけるコモンセンス」の問題として、「ニセ科学」にさらに切り込んでいく必要があるのは当然のことだろう。