PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

間違えることが許される環境


無知の知(Interdisciplinary 2007年7月28日)
http://seisin-isiki-karada.cocolog-nifty.com/blog/2007/07/post_bb60.html


過去の資産を知らずに手前勝手な論を紡いだものが「間違っている」という指摘を受けたとき、それを受け入れられるかどうか。
そういう局面に出くわした時期や周囲の対応で体験の質が変わりますよね。オトナになってから体験すると、きついもんがあるように思う。


重要なのは間違える体験を積むこと、間違えることを許す環境が早い段階で用意されることではないか。


そう思うのは、関連して思い出した記事があるからだ。


保護者の皆さんへ(1)(教育の窓・ある退職校長の想い 2006年02月14日)
http://blog.livedoor.jp/rve83253/archives/464939.html


ブログ主は元・小学校の校長先生。
小柴昌俊氏のお孫さんが3歳頃に「日本中から木を切ってしまえば、風は吹かなくなるのにね」と考えたという話、そして、ブログ主のtoshi先生のお子さんが小学生のときに「なぜ図書室に水道があるのか疑問に思った」という体験の話が出てくる。
いずれも必ずしも正解を出すことを目標としていない、「考えること自体」をよしとする視線の話になっている。こうした視線のもとで育てば「間違えることを恐れて考えなくなる」「自分で考えるよりも先人の得た結論を知ることを重視する」とはならないだろう。


これは、当初の話と真逆の内容のようにも見えるかもしれない。「過去の資産を知らずに手前勝手な論を紡ぐこと」そのものなのだから。しかし、その行為自体は否定されてはならないはずだ。


中学の頃、自分がノートにまとめた時間に関する認識が、古代ギリシアのものとほとんど同じだと大学生の友人に指摘された経験がある。
ギリシア哲学の存在は知っていたのに、それでも「えー、大昔の人=原始人といっしょ?」みたいな感じで、ものすごく落胆したものだ。それなりに懸命に(勉強なんか放り出して、夜更かしをして)まとめたものだったのだ。
でも、そのときに、その大学生は一所懸命にほめてくれた。考えた内容ではなく、ひとりでそこに到達したのはすごいことだ、という理屈だった。
今考えると、SFやマンガで読みかじったことをつなぎ合わせただけで、自分で作ったわけじゃないよな、とわかる。でも、当時は「そうか、スゴいのか。捨てたもんじゃないな、おれ」と自慢に思えたのを覚えている(^^;;


もう、その考えた内容は忘れてしまったけれど、少なくともそういう思考実験みたいなことをするのをやめようとは思わなかった。考えること自体は嫌いにならなかった。
もちろん、「今はこう考えられている」とかいう事柄を受け入れるのも、全然苦痛じゃなかった。
もっとも、その後も勉強は相変わらずしなかったんだけど(ダメじゃん)


だけど、オトナになってから同じような体験を初めてしたら、受け入れられるのかどうか、心もとないのではないか。特にこれまでの人生で得た知見を総結集したようなつもりにでもなっていたら、もう全人生を否定されたような気持ちになるだろうし。


そう考えると、できることならば、早いうちに自分で考えて間違える→指摘されて修正されるという経験を積むとよいのではないか。重要なのは間違える体験を積むこと、間違えることを許す環境が用意されることではないか、と思えてしかたがない。


#ちなみに、以前、kikulogで少し話題になった「小学校で重視される『考える力』」というのは、こういう「身近に問題を発見し、自分なりに『なぜ』を探求する力」のことだとぼくは理解している。「課題発見・解決型の学習」なんていうのもこれかな。かならずしも「正解を見つける力」や「こみいった問題に取り組む力」のことではない。