PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

PISAが測っているのは「学力」「応用力」ではない


PISA2006の結果が発表されて、またぞろ「学力低下」とか言い出している人がたくさんいるようです。新聞なんかも同様なことが、「KOYASUamBLOG2」の下記の記事からもわかります。


PISA2006(2007.12.05)


社説の論旨(2007.12.06)


なんだか「PISAってなにを調査しようとしているのか」という時点で、すでに誤解が少なくないようです。測っているのは「学力」「応用力」「読解力」だなどいう解説が多いですけれども、ぼくはちょっと用語が適切じゃないのではないかと思っています。大間違いだとまでは思いませんが。


でも、文科省が発表している概要に書かれている、調査の目的というか定義に当たる部分を読んで、「そうそう、そういうことを調べているんだよね」と思える人が、どれぐらいいるのでしょうか?


■まず「概要」を読んでみる
OECD生徒の学習到達度調査 Programme for International Student Asessment(PISA)〜2006年調査国際結果の要約〜」(文科省
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/gakuryoku-chousa/sonota/071205/001.pdf
から抜粋してみましょう(赤字による強調は引用者)。


まず科学的リテラシーが出てきます(p.2)。

科学的リテラシーは、個々人の次の能力に注目する。
  • 疑問を認識し、新しい知識を獲得し、科学的な事象を説明し、科学が関連する諸問題について証拠に基づいた結論を導き出すための科学的知識とその活用。
  • 科学の特徴的な諸側面を人間の知識と探究の一形態として理解すること。
  • 科学とテクノロジーが我々の物質的、知的、文化的環境をいかに形作っているかを認識すること。
  • 思慮深い一市民として、科学的な考えを持ち、科学が関連する諸問題に、自ら進んで関わること。
次に読解力(p.7)。
読解力とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」である。
それから数学的リテラシー(p.8)。
数学的リテラシーとは、「数学が世界で果たす役割を見つけ、理解し、現在及び将来の個人の生活、職業生活、友人や家族や親族との社会生活、建設的で関心を持った思慮深い市民としての生活において確実な数学的根拠にもとづき判断を行い、数学に携わる能力」である。
前半部分を見ると学力が関係があることはわかります。下地になる知識も必要でしょう。


しかし、大きな目標としては、いわば「成熟した市民には、どんな能力が求められるか」とでもいう、大変に高邁な理念が背景にあることもまたわかります(「科学的リテラシー」に割かれている部分が多いことから、PISAがこの能力を重視しているようだということもわかります)。そして、その「市民として当然に求められる能力が身についているか」を測り、生活調査等を加えることで「そうした態度を育むような仕組みが社会に育っているか」も含めて調べているわけです。


これは「学力」でしょうか? 「応用力」「読解力」といったものでしょうか? あえていうならば「市民に求められる健全さ」の一部としての「知的態度」や「社会性」「合理的判断力」などを測ろうとしているのではないでしょうか?


こうした能力は、文科省用語でいう「生きる力」に近いものです。2000年頃の教育指導要領で重視された「ゆとり教育」の中心的な概念です。決定的に異なるのは、「生きる力」には「思慮深い市民」とか「社会に参加する」といった視点がないことですから、同じものではないというよりは別物です。しかし似ています。こうした能力を伸ばそうというなら、一定程度の効果のある方針でしょう(それゆえの限界もあるでしょう。そこを不問にしても、実践できるだけの体力=教育予算や人員の配置を充実させたり、具体的な方法論をさらに練って行くといったテコ入れはなければなりませんけれども)。


■なにが読み取れるのか
上記の概要には、所見の最後に以下のような記述があります(p.11)。

生徒の社会経済文化的背景は、科学的リテラシー得点と強い相関関係がある。しかし、日本は、カナダ、フィンランド、韓国、香港などと共に科学的リテラシーの得点水準が高く、生徒の社会経済文化的背景の得点への影響が弱い国に位置している。
つまり、家庭や地域の貧富の差や文化程度の低さから子どもはものの見方や考え方についての悪影響を受けやすいものだが、日本ではあまりそういう傾向が見られない、ということです。おそらくは、偏見や思い込みと言ったバイアスが弱く、考えずに直感だけで判断するなどといった態度があまり見られない、ということでしょう。


多くの大人は「学校の勉強が実生活に直接役に立つことは少ない」と考えているでしょう。これは、学校がそうなっているかつての学校がそうなっていたという問題があるにしても、「知識や技術をどう使うか」という観点が、大人たちの間に育っていないからと言うこともできるでしょう。
2000年、2003年の調査のときも今回も、新聞に紹介された問題例を見て「これを解ける大人がどれだけいるか」という指摘も、あちこちでなされました。あまり大きく採り上げられたことはないようですが、ぼくも同感です。


ぼくはもちろん教育の専門家でも社会調査の専門家でもありません。ですが、2000年頃から日本の義務教育をウォッチングし、必要に応じてさかのぼって調べることもしてきました。また、地域の小・中学校にはなにかと顔を出しています。2人の子どもが、いまも地元の公立中学に通っています。
そんななかで思い至る範囲ではありますが、上記のあれこれも踏まえて考えると、過去3回の調査から、こんなことが言えそうです。


日本の15歳は、この調査の範囲では、ほとんどの生徒はおおむね合理的な判断ができ、市民としての健全な態度を備えていると言える。
また、そうした態度を維持することには、生徒たち自身も文科省も、そして社会もあまり関心がない。


日本の大人たちを考えると、能力態度ともに、15歳に比べるとどうも怪しいのではないか。


2000年のときに15歳だった人たちは、いま21歳です。彼らはどんな大人になっているでしょう。


さて、最初の話題に戻ります。
PISAが測っているものは「学力」「応用力」「読解力」でしたか?
そして、国別の順位に、なにか意味がありそうですか?



以下余談。
「こんなものは学力じゃないから気にしなくていい」という人が現れているようすがないのが、以前から不思議でした。そういう声に出会ったことがないのが、PISAがなんなのかが理解されていない傍証のひとつかもしれない、とも思います。
ちなみにぼくは、これは重要な能力であって、いまの学校教育でこれ以上の成果を望むのは困難だろうと考えています。むしろ、いまの学校を考えると、驚異的な成果だとさえ思うのです。
もちろん「これ以上は望めない」という話は、学校に期待されるものが変われば別です。しかし、そのためにはまず大人たち(文科省やマスメディア、有権者たち)が変わらなければ。ひょっとすると、今の21歳たちが社会を動かすようになった10年、20年後には、変わりはじめていくのかもしれませんね。彼らが今の社会に順応してしまわなければ。