PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

誰が「祈り」を踏みにじるのか


安易にスピリチュアルな言説をする者がいる。昔からいる。今もいる。


いわく「前世」「霊魂」「輪廻転生」、いわく「私には(見える人には)見える」。


それに心を寄せる人もいる。よすがとする人もいる。昔も今も。
「癒される」「気持ちが楽になった」「いい話だ」「真実がある」「温かい気持ちになれた」「救われた」


しかしこうした言説は、実は人々の切実な「願い」や「祈り」をこそ辱め、貶めているのではないか、と考えた(ううむ。ソラで書けない文字遣いをしてしまった。でも「はずかしめ、おとしめている」と平仮名で書くよりも強く感じませんか? 感じない? いや、言葉の意味は変わらないので印象が異なるだけ、言い換えれば気のせいに違いないのですが。これは文学ではないので、それでいいのですが)。


なにをどう考えたのか。順を追ってみたい。


■取り巻く多様な意見を考える
批判する人もいろいろいる。だから批判の内容にもいろいろなものがある。
端的には「でたらめ」「絵空事」「オカルト」「トンデモ」「ウソ」「作り話」。
放送の場合は「放送法に反している」「BPO放送倫理・番組向上機構)も警告を出している」「局内の審議会でも議論があった」「深夜ならともかく、ゴールデンタイムではいかがなものか」。
悪影響を指摘する場合もある。「子どもには有害」「信じてしまう人がいる」


最も多いであろう、事実か否かを問うものにしても多様だ。「その主張には根拠がありません」「そこで語られているような事柄は確認できません」「その話は捏造されたものです」「その言葉は特定の宗教に由来するものですが、意味内容や意図が違っています(例えば、前世や輪廻転生はチベット仏教にとってかなり重要な根本概念だ)」「トリック、仕込み、やらせ、ホットリーディングコールドリーディングだ」


なかには「霊的世界は存在するが、あの人物はニセモノ」などという批判もある。


確認された事実であり根拠があるかのように語られれば、「ニセ科学」「疑似科学」という声もあろう。
支持者が「学者は偏見で無視してきた」「学会のタブーなんだろう」と主張すれば、「19世紀以来(あるいは過去数十年)、何度となく研究されてきた。それでも裏付けが得られないのだ」という話をする人もいるだろう。
「現代の科学でわからないだけ」という反論には、「現代の科学でわかる範囲で十分に否定可能」と返されることもあれば、「そのとおり。『検証不能』でも信じるというのであれば、『科学の立場』からはなにも言うことはできない」と言われることもあるだろう。


もちろん批判に対する反論もある。
「いい話だと思う人がいるのであれば、ほうっておけばいいではないか」「水を差す必要はない」「『霊魂が実在するかどうか』なんてことはどうでもいい。大事なのは『心を動かされた』ということ」「信じたいものを信じてなにが悪い」「演出なんだからいいじゃないか」「信じる人間なんかいない」「好事家の間でなら無害」


よくわからないところでは「カルトではないからいい」「宗教ではないからいい」というものもある。これは好みを表明しただけで、反論とは言えないのかもしれない。



いろんな事態があって、その内実に伴って(あるいは、内実と関わりなく)いろんな指摘があって、いろんな言葉遣いがある。
オカルト話もニセ科学疑似科学)的な話も、肯定するにしても否定するにしても、いつもどこか違うが、いつもどこか共通している(少しずつであれ、決定的にであれ)。


■それぞれの人や立場を考える
信念や期待に基づいて行動する者を止めるのは困難だ。彼らの行動原理は、彼らの内側にあって、論理や合理的判断といったものは、そこには手が届かない。


いったん事実として受け入れた後に、それを否定されることが負担でない者はいないだろう。うかつにも信じてしまった人の浅慮を指摘することはたやすいが、彼らにある責任は「一端」にすぎない。


メディアには種々の問題がある(必要と思われる事柄への言及が少ない、誤った情報を確かめもせずに広める、メディア自身が誤りを犯すといったあれこれ)。その影響の大きさを考えると等閑視はできないが、適切な情報を適切に流すのが難しいことは、自分でも知っている。「マスメディアは当てにならない」とだけ言って済ませてしまう態度は、結果として「ネットの情報は便所の落書き」という態度と同じだ。


科学者や研究者など、専門家による軌道修正のための言及が少ないとすれば、それは残念ではある。しかし、それも致し方ないだろう。少し探せば誰かしらの言及はあり、そもそも多くの専門家にとって仕事の本筋はそんなところにはない。


自分の足下を危うくするような批判・指摘(たとえば誤った根拠や論理に基づくものなど)もなかにはある。もって他山の石とするしかない。


「もっと重要な問題があるのに、なぜその問題なのだ」という声に対しては、「そうかもしれないが、誰であれ自分が気づいたことについて、語れるように語ることしかできません」としか応えようがない(「餓えて死にかけた子どもの前で、文学は有効か」「死期を早めるから有効だ」といったやりとりの再演が望まれているのかもしれないが)。


肯定であれ否定であれ、誤解や思い込みに基づく言及は絶えない。


不確かなもの(言説、製品)をそれと知って広めようとする者。
それが不確かだということを理解せずに広めようとする者。
確かさということに思いを馳せない者。
いつ、どこで慎重になるべきかを考えられない者。


誰かをだまそうとか、不当に利益を得ようという意図がない者が、それだけで免責されるわけではない。そのことを理解できない人もいる。
誰だって間違えようとして間違えるわけではないのだが、それでも責任が生じるときには生じるのだ。自分が間違えている可能性を覚悟しながらなにかをするのは、誰にとっても楽な話ではないが、ぼくも含めて誰もが耐えなければならないことでもある。


■ならして考えてみる
いずれにしても、最も穏当な結論は「誰であれ、よく調べないでものを考えるのは危ない」「よく調べもせず、よく考えもせずになにかを判断するのは危ない」といったところだろう。
ぼくらが何年もかけて学校でなにを「学ぶ」のか、煎じ詰めればそれが回答かもしれない。あとは「どう調べるか」「どう考えるか」を身につけられるかどうか、だ。
「学校とは勉強の仕方を覚えるところだ」「勉強が始まるのは、学校を卒業してからだ」などと言われた人も少なくないだろう。同じ意味ではなかろうか。


調べるにしても考えるにしても行動するにしても、その人それぞれの事情によって限界は違う。
そして、調べても調べても調べても、考えても考えても考えても、どうにも答えの出ない問いがある。どんな行動をしても納得が得られないことがある。


そんなときに、人は祈るのかもしれない。


もしもそうなら、そんな「祈り」を踏みにじり、嘲笑う行為は、とても残酷な行いだとぼくは思う。そんな行為、あるいは、そんな行為を許す言説、ぼくは「そちら側」には行きたくない。


安易にスピリチュアルな言説をする者。彼らが踏みにじっているものは数多い。宗教、科学、道徳、真理、真実、信頼、期待、希望、正義……多くの人が価値あるものと尊んで守り育ててきたであろう概念が、独りよがりの思いつきやその場限りの出任せで泥を塗られていく。
しかし、多くのものは結局は守られるだろう。その価値を尊ぶ人たちによって。


ただ、最も守られがたいもののひとつに、一人一人の「祈り」がある。叶えられると信じる理由がなかった「誰それを苦しめたくない」という願いが、「苦しみませんように」という祈りを生む。祈る対象があるかのように感じたとき、漠然とした願望は「祈り」に形を変えるのではないか。それは一人一人に固有の別々の理由に基づくものものだ。宗教ならば教祖や僧侶にあたる者がいて、ともに、あるいは代わりに祈るかもしれない。しかし「宗教ではない」ときにそうした装置はない。つまり、彼らの思いを代表(代理)して守ってくれる人はいない、そうではないだろうか。


スピリチュアルな言説をする者が「確認不能な真実」を語っているのだと信じるのならば、それは止めようもない(彼が、あなたの代わりに祈ってくれることが本当にはないとしても、祈ってくれると、あるいは祈りを省みてくれると期待することはできる)。しかし、「真実ではないかもしれないが」という前提付きで、「それでもかまわない」と彼らを擁護するとき、そうした祈りや願いはどうなるのだろう。その刃は批判者の方だけを向いているのではない。


できる範囲のことしかできない。だからこそ、「そちら側」には行きたくないのだ。
なにかを信じるとすれば、誰もがそう考えているのだと信じたい。