PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

朝日新聞「それ本当ですか? ニッポンの科学」

この月曜日から始まった朝日新聞・夕刊の連載記事が興味深いらしい。今のところBSEの話と携帯電話の電磁波の話が語られたらしい。


■[トンデモ][科学] 朝日新聞「それ、本当ですか?ニッポンの科学」(kmoriのネタままプログラミング日記 2008-02-06)

これまで3回の内容は中西先生がふだん主張されている「リスクをゼロにすることはできないし、無限にコストをかけることもできない。だからリスクをなるべく正確に見つもり、適正なコストで妥当な範囲のリスクにおさえるべし」という話だった。


何回続くのかわからないが、なかなか良い企画だと思う。できれば、この記事だけでなく紙面全体をこういう態度で作ってほしいものだ。


あと、日本で行われている非科学的な経済政策についても是非とりあげてほしいが、さすがにそれは高望みというものか。

朝日の連載「本当ですかニッポンの科学」の真贋(風と自由と空と 2008/02/06)
これでは一体何を信じればいいのか。朝日の記事が正しいという保証はどこにある?
それ本当ですか?ニッポンの科学(朝日新聞)(偶然の発見 2008/02/07)
大変におもしろい記事だ。また明日が楽しみ。


その朝日の記事、見てないけど(Webにはないっぽい)、煽ってないよね? 「みんな、だまされておるぞ!」とか「♪ニッポンのカガクは イェイ イェイ イェイ イェイ こんなにダメだよ イェイ イェイ イェイ イェイ」(古いなあ)とか、なってないよね?




知ることには歓びもあれば、怖い思いをすることもある。「知らなきゃよかった」とか言う人は、どんな話でも、きっと必ずいるのだ。じゃあ、誤りを指摘されたり批判されたりすることに耐えられない自我は、知ること(あるいは、知らなかったと気づくこと)に耐えられるのだろうか。




古傷のようにかつての誰彼との会話の断片が疼いている。自分が目からウロコを落としたことがうれしくて、誰彼にその話をするというような人もいるけれど(そんでまた、それが実は新しいウロコを目に入れただけだったりもするんだけど)、目から落ちてしまったウロコを必死で拾い集めて、もう一度、目に入れようとする人だっていてもおかしくないのだろう(それも、今度こそ落ちないようにしっかりと)。


「そのウロコはない方がいい」なんて、そんなことを言う「権利」がある人はいないかもしれない(言う義務がある人は、きっといるだろう)。だけど、なんとか綱渡りで生きている人にとっては、「となりの誰かが目にウロコをつけているなんてのは、赦し難く危い」って話でしかない。だけど、誰もすべてを知っていることはできない。


「眼鏡をかけると、いろんなものが見えずぎる。だから、日頃はかけないんだ」


そう言ったのは、ぼくよりもちょうど一回り年上の編集者だった。仕事のとき以外は、きっと今も眼鏡をかけないのだろう。
それで事故に遭うときは、どうか、誰もいないところで、誰も巻き込まないで、誰も悲しませないで、と言ってしまったら冷酷なのだろうか。


いかんなあ、ナーバスだなあ……。


飢えで死ぬかもしれないときに、手に入れた食べられそうなものの安全を吟味できる人が生き残るのか、それとも、しゃにむに口に入れてしまった人が生き残るのか。
それは答えが出ない。「どれほど死にそうなのか」が違ったら、答えは簡単に変わってしまう。でも、その人が死ぬまで、どれほど死にそうだったのかはわからない。
「じゃあ、両方の条件をそろえて、まずどっち同じぐらいに死ぬことを確かめて、それから生き返らせて、吟味した人としなかった人の余命を比べてみましょう」というわけには、多分、いかない。
でも、「これぐらいの状況で、これぐらいの健康状態や体格の人は、あとどれぐらい生きていられる」ということがわかっていれば、「およそ」は条件を揃えることができる。実際に人間でそれを試してみることはできないだろうけれども、そういう憂き目に遭ってしまった人というのはいるのだ。


多分、かなり妙な話でも、それを信じないでいられないとか、そこが生命線だっていうぐらいになっている人は、崖っぷちにいるのだ。彼の目に入っているウロコが彼をこの世につなぎとめているのかもしれない。
なんとなく良さげな気がして、別にそれでもいいじゃんとか言っていられる人は、かなり安全なところにいるのだ。今は。その本人の主観では。


ビリーバー予備軍には、ぼくらの言葉が届くかもしれないというのは、ひょっとすると、そういうことでもあるのかもしれないなどと考えた、冬の夜。