PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

きくちまことはkikulogで想像力について何を語ったことがあるか


倖田來未の「羊水が腐る」発言をきっかけに、あらためて「想像力」について議論が交わされている。発言と想像力を結びつけた指摘の発信源はkikulogであろうかと思う。


きくちまことは、kikulogではその開始当初(2005年4月)から想像力について言及してきたと記憶している(それ以前にもあったかもしれないけど、そこまで追ってないです)。そこで、きくちまことは、これまでkikulog上で想像力についてどんなことを語って来たのかを、サイト内検索&コピペでまとめてみた。前後を省略している場合もあるので、緻密に考えたい人はリンクしてある元発言をご参照されたい。


ちょっとした断り書きなどが末尾にあります。




2005年
電力線通信:PLC(2005/11/8)のコメント欄
November 14, 2005 @10:28:51
「シリアスな問題に対する素人実験の危険」というと、いつも思い出すのが、10数年前に読んだ「地球の歩き方」のこと。あれには読者からの情報提供が載っているのですが、中に"危険地帯だと言われてましたが、まったく危険はありませんでしたよ"という趣旨の情報がありました(^^;)。それはたしかに事実なのだろうけど、まさに「個人的体験」なわけで、こんな危険な情報はないなあと、編集部の想像力不足にびっくりしたのでした。


2006年
「ニセ科学」シンポジウム(物理学会)(2005/11/30)のコメント欄

April 1, 2006 @12:58:13
実はTOSS系の授業計画を読んでいると、その多くに「想像力不足」を感じます。TOSSは「教育法則化」なので、"こうすれば、必ずうまくいく"というシナリオを作ろうとしているようです。
「水伝」のシナリオをいくつも読みましたが、どれも途中で子供が「それは科学的に間違っているのではないか」という疑問の声を上げることが想定されていません。しかし、実は子供向けの科学の本には「中谷ダイアグラム」の話が書かれているものもあるので、そのような疑問の声を上げる子供がいてもおかしくないわけです。TOSSのシナリオはその時点で崩壊します。
事実、疑問の声を上げたところ、先生にひどく叱られて、長く教師不信に陥っていた子供がいたという話を聞きました。つまり、問題は実際に起きているということです。
 
子供は教師のストーリー通りには動きません。一見、動いているように見えても、その裏では単に教師をバカにしているだけかもしれない。必要なのは表面上のストーリーではなく、その中身ですね


ホメオパシー(2006/11/22)のコメント欄

November 23, 2006 @20:22:42
昔はともかく、今ホメオパシーにはまる人というのは、その基本にあるのが「現代医療(医学)不信」ですよね。「現代医学は病人を増やしているだけだ」とか、その手の。日本人の寿命が、ある意味「不自然なほど長い」ことなどは考慮されず、「病人が多い」という点だけを気にするわけです。
実のところ、ホメオパシーという「効果のない医療」にはまっていられるというのは贅沢なのですが、そういう認識はないのですよね。たとえば、飲み水が原因で感染症から死に至る危険性と日常的に向き合っている国で、「現代医療よりもホメオパシー」なんてことを言っていたら、本当に死んでしまうわけです(波動も同じですね)。そういう想像力があればいいのですが。


ブログ解読(朝日新聞)(2006/12/11)のコメント欄

December 21, 2006 @01:26:42
江本は、世界中で安全な水にアクセスできない人がどれほどたくさんいるか、きちんと知っています。そして、そのために「水伝」の絵本を配布しようとしている。問題を認識していながら、それをやるというのは、まったく許し難いです
飲み水に由来する感染症で多くの人が死んでいるわけです。それを「水にありがとうと言えばいいのだ」などと、平気で言えるところが恐ろしいのですよ。
 
彼はまた、ハリケーンカトリーナについてのメッセージで、「水に感謝しなかったから、水が怒ったのだ」としか要約できないことを言っています。
 
これらを「いい話」と思えるとしたら、大変なことです。
ちょっとでも想像力があれば、こんなことは言えないし、信じることもできないはずです


しゃべらなかったけど大事なこと(2006/12/20)のコメント欄

December 21, 2006 @08:54:51
ゲーム脳や水伝については、仮に短期的に効果があったとしても(というより、むしろ短期的には効果があるからこそ)、長期的には悪影響のほうが大きいと考えています
あとで「あれは全然根拠のない話だった」と子供が気づいたらどうなるのか、ということです。あるいは親が「おかしい」と言い出したらどうか
やはり、目先の効果に気をとられるあまり、長期的視点が欠けてしまった。あるいは、想像力が足りない。そういうふうに思います
 
ゲーム脳がこわいから、ゲームをしない」ではだめなんですよ。


January 19, 2007 @02:49:16
んとね、シャツのボタンはずれてないんですよ、もちろん(^^;。どう見えるとしてもね。
そんなことがあったら、テレビ局の人が注意するに決まってるじゃないですか。スタッフは複数だし、その上、メイクさんもいるわけですから。その程度の想像力は持って欲しいものですよね


2007年
「まん延するニセ科学」(2007/2/9)のコメント欄

March 8, 2007 @15:45:28
僕も、石原知事が支持されるのも小泉政権が支持されたのも、結局は「考えることをさぼった人たちがたくさんいたから」と考えています。ポピュリズムって、ニセ科学とあんまり変わらないと思うんですよ
 
よく言うのですが、「今回の選挙の争点は郵政民営化だ」と声高に言われると、「そうだそうだ」とばかりに本当にそれで投票しちゃう人が多かったわけ。ところが、郵政民営化の是非だけで当選しちゃった人たちが「年金」を議論するわけですよ
なにがいけなかったのかといえば、「今回の選挙の争点は郵政民営化だ」というプロパガンダを真に受けて、それ以上「想像力」を働かせなかったことなんです
で、こういうのは「ゆとり教育」とも「詰め込み教育」とも関係ないのですね。だって、団塊の世代が「自分の年金のこと」にも想像をおよぼさずにプロパガンダに乗ったのだもの


毎日新聞:ニセ科学の罪(2006/4/20)のコメント欄

ガ ― March 15, 2007 @09:56:27
一般人にとって「必要な勉強」とは、起こりうる危険と確率の一覧表を見て、それが自分に起きたらどうするかイメージできるようになる。ってとこじゃないですか?


きくち March 15, 2007 @10:35:47
基本は「想像力」ではないかと思います。


March 17, 2007 @12:44:27
僕が理解してほしいのはほんの少しですよ
 
"お産は本来かなりのリスクをともなうものだが、医療技術の進歩によって「安全なもの」になった"
 
医療にどれほどの不信を持とうが、それなりの根拠があるかぎり、自由なのですが、この点だけはきちんと理解してもらわないと。
 
いったん「安全」になってしまうと、そのありがたみを忘れて、「だめなところ」だけに注意が向きます。
お産に限らず、さまざまなところで、それが起きる。「水道水は危険」というデマだって同じことです。達成された「安全」の上でしか成り立たない「危険」の議論は、とても悲しい。
「安全」にするためにどれほどの努力がなされてきたのか、それを忘れてしまう想像力のなさが、僕にはとてもかなしいのですよ。
「もっとよくしたい」ならわかります。でも、「台無しにしたい」というのは困る。


想像力(2007/9/12)

必要なのは想像力だ
 
「他人は相当に素朴にしか物ごとを考えないのに対し、自分は素朴には考えない」と思いこめるというのはかなり問題で、そういう立場から書かれた「ニセ科学批判批判」に見るべきところは何もない。しかし、それが「科学に携わるもの」の立場で書かれると、非常に迷惑だったりする。
 
「自分が思いつく程度のことは相手も考えているのではないか」と想像してみるのは重要。
どんなに馬鹿なことでも、それなりに長く続けていれば、それなりに考えるもので、そうそういつまでも「相当素朴に」はやっていけないでしょう。さすがに「その場の思いつき」とは違うわけで、そのくらいのことは考えてもいいのにと思う。
  
想像力はだいじ
― posted by きくち at 03:25 pm



11th of September(2007/9/12)およびそのコメント欄

9.11の日、テレビで見ていたWTCの崩壊に、本当に「世界の色が変わった」ような気がしたものです。
 
9.11はアメリカ政府の自作自演だとか、WTCの崩壊は爆破によるものだとか、そういうたぐいの陰謀論を弄ぶ人たちがいまだにいます。妄想力はあっても想像力のない人たちということですが、死者への冒涜という意味でも許し難い。
WTC爆破説の急先鋒がスティーブン・ジョーンズだというところに、さまざまな意味で「哀れ」な気がします。物理学者としてそれなりに名をなした人なのでしょうが、専門分野のことは知っていても「科学」を知らなかったということです。
日本にも9.11陰謀論を弄ぶ人たちがいます。妄想と現実の区別がつかないのでしょう。
 
想像力と妄想力は違います。
だいじなのは想像力


気になるかたには、基本文献として、奥菜秀次著『陰謀論の罠』(光文社)をお薦めします

― posted by きくち at 03:46 pm


mastacos ― September 15, 2007 @09:04:22
#既にほぼ間違いないと言う事象があるとします。(仮に95%)
 それに対し、新説を掲げてそれが可能性を示しただけならば(仮に1%)
 新説の方は新たな事実を積み上げて可能性を挙げない限り信用されないでしょう。
 1%が95%と同等とは思えないですから。
 新説を全否定しているわけでは有りません。
 もっと事実を積み上げなさい、既論はそれだけの事実を積み上げているのだから。
 そう言うことです。


きくち September 15, 2007 @09:53:58
ええ、要するにそういうことです
陰謀論者には妄想力はあるが想像力がない、というのもそういう意味です


September 15, 2007 @21:48:20
ええ、上のほうでも書いたように、「陰謀」は実在します。
単に陰謀の話をするだけでは「陰謀論者」とは呼ばれません。
陰謀論者と呼んで貰いたい人は、「とてもありそうにない妄想的陰謀」を語る必要があります。
必要なのは想像力ではなく、妄想力です。これが常人には難しい


September 18, 2007 @09:46:21
はからずも直前のエントリーの内容を再確認することになってしまいました。
陰謀論者は「否定論者は高校生程度の力学も知らない」と考えるようです。
想像力と妄想力の大きな違いは、「妄想力は想像力を抑制する」ということです。妄想を成立させるには、想像力ほど邪魔なものはありません


September 18, 2007 @11:21:55
「程度問題」がわからないというのはたしかに驚きですが、自分を振り返ってみると、常に程度問題に敏感かというとそうでもないですね。○○○さんも、専門である地学の分野ではそのような間違いを犯さないのではないでしょうか。繰り返し言っている「想像力」の問題と関係するのだと思います。


2008年
倖田來未舌禍事件または想像力の欠如について(2008/2/3)およびそのコメント欄

自分の耳で聴いたわけじゃないんですけど(ネットに落ちてるのでしょうが)、世間で大きな話題になっているとおり、くうちゃんが「35歳になるとお母さんの羊水が腐ってくる」とラジオで発言して、その件について謝罪してました。
 
この子は羊水がずっと(妊娠してなくても)お腹に溜まってると思ってたんですかね、という突っ込みはさておき、この話題をとりあげるのは、「想像力」の話がしたいからです。自分は35までまだまだあるから、自分が35になることが想像できていないのはしかたない。しかし、自分のファンには35以上の人もいるだろうに、その人たちが発言をどう捉えるかが想像できていない。ファンじゃない人のことはそもそも想像の範囲にないのかもしれないけど、世間には35以上の女性がたくさんいることが想像できていない。
まあ、ちょっとした想像力があれば、ラジオでできる発言ではないですよね。
 
で、想像力が足りないからこそ、「水からの伝言」を肯定できるのだろうなあと思うわけです。「水からの伝言」は健全な想像力の産物ではなくて、強いて言えば妄想力の産物だろうと考えるのですが、どうでしょう。少なくとも、ちょっとした想像力があれば「水からの伝言」を持ち上げることがなぜまずいか(科学的知識と関係なく)、わかるんじゃないかな。あれを「いい話」と思いこんでしまうのは、想像力が足りないせいだと考えるのですが、いかがでしょう
― posted by きくち at 12:53 am


February 3, 2008 @11:36:07
僕は「想像力」というものをとても重視していて、ニセ科学にしろスピリチュアルにしろ陰謀論にしろ、想像力が足りないのだと考えています
だから、僕は想像力について語りたいし、今回の話はその格好の例になっていると考えています。
 
それでくぅちゃんのファンの反感を買っても、まあしかたがないです。


February 4, 2008 @00:06:10
はい、僕も社会全体に「想像力の欠如」が蔓延している気がしています
そのことと「二分法思考」の蔓延が関係あるかどうか、気になっています。僕はそれは同根だと思うのですが、どうでしょう


February 5, 2008 @17:52:25
そのとおりです。ニューエイジにしろスピリチュアルにしろ、「想像する」ことは一見重視されています。しかし、それは全然だめである、と。もっと言うなら、「そんなのは想像力のうちにはいらない」と。
  
だから、ここではそれを「想像力が足りない」と言っているわけですね。そして、足りない部分のほうが重要である、ということです


やまき ― February 6, 2008 @10:13:09
科学者の想像力が貧困だからニセ科学がはやるんではないかな


きくち February 6, 2008 @10:22:57
どういう意味での「想像力」かによるけど、科学は最終的には実証されなくてはならないので、「水は言葉を理解する」みたいな「想像力というより妄想力」のような話は、仮に思いついたとしても却下されてしまうわけです。
その意味では、想像力に対して「実証」という枷がはめられているという言い方はできます。ニセ科学にはその枷がない分、勝手なことが言えます。好き勝手なことが言いたいだけなら、ニセ科学のほうが分がよいですよ。
 
ただ、それはこのエントリーの文脈で言っている「想像力」とは少々違うけどね。




ちなみに上記は、もはや引用じゃなくて単なる抜粋なんですけど、まあ公開されているものだし、やってみた次第。必要に応じて、きくちまこと以外の発言も2、3コピペっている。「やめて」っていう当事者は、お手数ですがご連絡ください。ほかにも重要な指摘はあるかもしれないけど大変なのでそこまで手は出していない。


およそ時系列に並べてある(つもり)。適宜「ここに出てくるよ」という部分を強調した。ただし「想像力」(2007/9/12)と「倖田來未舌禍事件または想像力の欠如について」(2008/2/3)みたいに全体が想像力について語っているケースでは、特に部分的な強調はしていないこともある。一部人名を伏せ字にした。一対の応答をまとめて抜粋したケースを除いて、とくに誰の発言かは記していない。発言者名のないものは、「きくち」と書いてあったのだと思ってくださいな。


あー。こういうことをすると「きくちまことの神格化」みたいに言い出す人もいるんだろうか。いるんだろうなあ。
まあ、しょせん「一人の『想像力を重視する人』が、想像力についてどれほど多岐にわたる発言をしているか、あるいはどれほどせまい範囲の発言をしているか」のサンプリングでありますが、なにしろあそこはどでかいんで、基本ただの便宜だがね。手抜きだけど。がう。
 



どっかで技術開発者さんが、「ニセ科学の蔓延」と言ったときに「蔓延」の問題をこそ重視しているのだけどなあ、というようなことを言っとられました。が、それでも誰がどう見たって「ニセ科学の話」なわけですよね。「蔓延こそが問題だ」と言っても、どうしてもニセ科学の話は重箱の隅で、大多数の人には一目でアチャラカだとわかる問題で。


上記のようにきくちくん一人を見ても「想像力の不足」とか「〜を働かせていない」とか「〜の欠如」とか、いろんな言い方をしています。まあ、くくっちゃえば「思いをいたさない」「思いを馳せない」ことへのマイナス評価なわけですよね。マイナス評価の内容は、もちろん誰の何に対する話なのかでも異なるわけで。
世間一般に対しては嘆きや慨嘆や憤りだったり、当然働かせるべき人を相手にした場合は批判や非難や罵倒だったり、絶望に近い思いだったり。


当然だけど、誰がその言葉を使うのかによっても意味合いが違うことはあり得て。
テンプレのようにその言葉を利用する人の場合は、満たされない思いの八つ当たりだったり、なんか使命感に燃えてしまった誰かの場合は傍目にもわかる流れ弾だったり、表現者にターゲティングしている表現者の場合は断罪だったり。いろいろ。


とてつもなく強く激しい言葉の選択だと思います。「ニセ」とか、「あり得ない」とか、「言い切っていい」とか、そういう文脈のなかで選びとられたのだと思います。ある種の人には。
使うには、ある種の覚悟が必要な言葉のひとつなんだろうな。でも、安易なテンプレ化もしてしまう。そこを覚悟して使う、あるいは一人歩きするであろうことをわかって意図的に使う人もいるだろうとも思います。


そこに引っかかる人もいるだろうと思います。引っかかったら、そこをきっかけに、いろんなことに「想像力」を働かせられたらええなあ、と思います。