昨日のこと、郷里に住む、小学校以来の友人が、久しぶりにmixiに日記を書いていた。
前日の午前中、次男坊がサッカーの練習中に心停止し、蘇生できなかったのだという。
18歳とのこと。合掌。
この夏、うちの次女にはBFができた。
彼のお兄さんが、つい先頃亡くなってしまったのだという。詳細はわからない。
長女の同級生だった男の子が、長い長い闘病の後、この夏を迎える頃この世を去った。16歳だった。
心よりお悔やみ申し上げる、としか言いようがない。
この夏、気づけばそうやって3人の十代を見送った。
友人の次男。長女の元同級生。次女のBFのお兄さん。
3人とも、会ったことがあるのかどうかも定かでない。
しかし、その家族は知っている。そんな3人。
同郷の友人と電話で話す。俺たち自身ならば、どこかで「もう歳だものな」と思えるのだが。
子どもたちや若者の死は、やりきれない、と。
残される者を思い、逝く者を思う。やりきれない。
我が子に「堪忍してくれよ。頼むよ」と語ってしまったそうだ。
理不尽な死の訪れ。
防ぐことも覚悟しておくこともできない。
生きていられること自体が僥倖なのだ。
そして、どれほど親しい人の苦痛に対しても、
できることなどなにほどのことでもないのだ。
そう改めて思う。
悼むことしかできない。
いや、それでも悼むことはできる。そうなのかもしれない。
ともに嘆くことだけでも、慰めになることもあるかもしれない。
昨日、子を失った友人は、なにもできなくてすまないと謝ったぼくに
「いいや、お前らが知っていてくれるというだけでも力になっているんだ」
と言ってくれた。
そうであることを願わないでいられない。
往ってしまった3人と、残された家族たちに、願わくば平穏を。