PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

病院に行く勇気【追記あり】


「病院は患者や患者家族のメンタルな部分も含めてケアすべき」という話がある。もっともだ。異論はない。


親戚が某大学病院で医療事故もどきで死にかけたことがある。病院との交渉にはぼくも何度も立ち会ったのだけど、その際の経験からすると、「メンタル面のケア」とかいう以前に、大病院っていうのはそもそもコミュニケーションがすんごくヘタにならざるを得ないという「病い」を抱えているのかもしれない。患者家族の心理的な負担感を取り除く方向には配慮が向きにくいようなところがあったのだ。


彼らの対応は、訴訟リスクなどを下げるためのコミュニケーション術にはかなってるのかもしれない。しかし、そういうスタンスは患者家族の不安感を増大させる効果しかなかった。
事務方なんかは医療当事者ではないので、患者家族と医師とのコミュニケーションのパイプ役をやれそうなものではあるのだが、それどころじゃなくて、事務方と医師の説明が食い違うことはのべつで、彼ら自身が医師との理解の共有を諦めている節さえあった(ポーズかもしれないけど)。
さらに、かかりつけていた内科の担当医と、とっても若い循環器の担当医やらさらに若いカテーテルの技師だかと、指導している心臓外科だかの医局長を務める定年間近の教授だの、手術を指揮したよその教授だの、病棟の看護士たちだの……と登場人物は多い。事務方だってひとりではない。事務方の背後には病院の弁護士もいる。
長く通っていた病院だったが、内科の担当医以外はみんな「知らない人」なのだ。ふつうの人間関係でいう信頼関係なんか、そこには育ってないのだ。


この親戚の場合は訴訟までは行かずに経済的保証やら治療やら賠償金やら慰謝料やらってことで和解できました。でも、親戚一家にとっては、こうしたことを決めるための交渉が、手術の失敗と同等かそれ以上の心理的な負担だったんですよね。できるだけボクが代わりに交渉したり説明したりしたんですけどね。


実は、こんなことを思い出したのはpoohさんちの「責任の水準」を読んだからでして。

代替医療を選択するひとは、多くの場合それが「感情を満たしてくれるから」と云うことをその選択の根拠にしているように見える。「最終的に命を救ってくれること」より「いまここで自分の気持ちを満たしてくれること」を重視しているような。これはもちろん考え方なのだけれど、でもそう云う理由があるために、多くの場合代替医療を選択するひとは通常の医療に対して批判的だ。
ただ、それは本当に公平なものなのか。
先の「不安解消装置」で採り上げた「幸せなお産」なんか、その不公平の最たる例だと思いますね。


しかし、「幸せなお産」は例外的なケースとし、さらに代替医療に頼るところまでは行っていない親戚のケースを見ていて、改めて強く感じたのが、前述の「コミュニケーションがへた」ということだったのだ。
本題である、患者にとっての代替医療と通常の医療という問題からはズレてしまうので、コメント欄に書くようなことではない……とは思うんだけど、思い出しちゃったものは仕方がないのでここで続ける(もうひとつ、失敗したこの手術が本当に必要なものだったのかという問題が実はある。将来のリスクと苦痛を減らすのが目的の治療だったのだ。これはpoohさんの議論とも関係がなくはない。でもまあ、この問題もここでは触れない)。


なけなしの勇気を振り絞って病院に行っている心弱い人たちには、医療の多くは本当にブラックボックスで、とんでもなく心細い。なにしろ医者だけが頼りなのに、うまくコミュニケーションできている自信がもてないわけで。


この親戚なんかは、入院した日に承諾書を示されたらパニクってしまった。
「死ぬ可能性があると書いてあった。失敗しても文句を言いませんみたいなことも書いてあった。話が違うって怖くなった。90何パーセントの成功率だからだいじょうぶって言っていたのに。でもお医者さんは『心臓の手術だから、100例に何例かぐらいはあるけど、まずだいじょうぶだ、万一のことだ』って言うし、もう手術の前日だし、諦めて署名した」
おそらくはかなり普通の手続きでかなりふつうの内容だったのだろうが、それだけで、とてもとてもおびえているのである。まあ、いまどきこんな反応をする家庭は例外的なのかもしれない(確率が実感をともなって理解できていないので「話が違う」になっちゃうとか、いろいろ思うけどね。まあ、本人としては仮に100分の1が10万分の1でも自分がそれに当たるかもしれないと考えたら気が気ではないわけである)。でも、ひょっとすると、しつこく説明を求めたり逆らったりしたら、頼みの綱の医者に嫌われるのではないかと心の底から心配しているのだ。それは一般的な心理なんじゃあなかろうか。


7/13追記
万一、自分の受けるあの手術かな、なんて疑心暗鬼になる人がいるといけないので、慌ててちょっと補足。(NewKomerさんのコメントで気づきました。ありがとうございます)
この親戚のようなケースは何千分の1、何万分の1のはずです。さらに、実際に死に至ることはこのケースよりもさらに稀です。
具体的な病名や施術の名まえを覚えていないので、中途半端かもしれませんが、もう少し具体的なことを書いておきます。
まず患者は70歳ぐらい。かつて胃がんの手術を受けた病院での定期検診で、長年にわたって何度もあった「意識を失いかねないような不整脈の発作」について精査することになった(24時間、ポータブル心電計をつける、というような方法)。その結果、心室に「先天的な畸形」があるのがわかった。その発作を止めるために「カテーテルを使って心臓の畸形の部分を焼く」という治療を勧められて、迷ったけれども受けることにしたというものです。
この治療法自体は、数少ない根治療法であり、患者への負担も小さく、かなり安全な施術といえます(ふつうなら、3日間ほどの入院で済みます)。
文中に「成功率は90何パーセント」「失敗は100分の1」というような話が出て来ますが、「失敗=死ぬ」ということではありません。失敗例のほとんどは「治療効果が得られずに終わった」というだけです。生命の問題になるようなケースは、失敗例のうちのさらに何十分の1、何百分の1のはずです。つまり、誤解を与えるような書き方をしてしまったかもしれませんが、何千分の1、何万分の1のケースのはずというのはそういうことです。
今回の事故は、施術の際にカテーテル心室の壁を破って大出血を起こしたというものでした。血圧低下等で施術中に異常に気づき、術式を中止して治療に当たったことで生命はとりとめました。家族が術中に集められたぐらいですから、確かに生命の危険もあったのですが、心臓を扱うだけあって、事故があればすぐに発覚するとも言えるわけで、実際に死に至るケースはさらに稀ということになります。
追記、ここまで)


病気が怖いだけでなくて、病院で治療を受けるのに勇気がいるってのは、本当に不幸なことだ。医師と患者の双方どころか、おそらくは現代医療にとっても不幸なことだ。


手術を受けた本人は、もう二度と外科手術なんか受けないと決めてしまった。まあ、病院も希望するなら病院負担でやるけど、ぜひ再手術をとは言わなかったけど。
幸いいまのところ親戚たちの関心は代替医療には向かっていない。そうしないにはいろんな要因があるだろうけれども、どっかの誰かに「そのつらさ、わかるよ。イヤな医者だねえ」と言われてしまったら、コロっと行ってしまいそうな危うさも感じる。それがオガミ屋であってさえも。
楽になるとか治るとか言われなくても、怖くなくなるだけでありがたい、そういう部分があるに違いないのだ。


以下、本当の余談。
医療というのは、ほんとうにややこしい問題をかかえている。
かつては「医者なんてリスキーな商売だし難関の試験もあるのに、儲かるとか社会的な地位とかいう理由でホイホイとつこうという人がいるなんて、とても信じられない」と思っていた。そしたら、最近は訴訟リスクが高くてハードな小児科や産科は志望者が減っているのだとかなんとかいう話も聞く。さもありなん。
訴訟がメジャーではない社会で技術者を訴える人が増えてくると、こういう問題も起きてくるわけで、そうすると、今度はその技術の恩恵を受けることが難しくなってくる。おそらくは「医療事故にもなれずに死んじゃう」みたいなことも出てくるだろう。
これは医療従事者のモラルの問題なんかではない。もともとモラル意識が飛び抜けているような医者は「赤ヒゲ」だの「青ヒゲ」だのと特別視されていたではないか(違)。特殊な人はもとから少ないので、リスクを避けようとするのはふつうの反応というべきだろう。わざわざ前線の従軍医師になろうとする人が少ないのと同じだ。


市場原理が正常に働くならば、リスクは高いが不可欠な職能としてさらに高収入にでもなるのだろうか。それとも、このエセ平等志向社会ではそれも許されず、小児科医と産科医は誰でもなれる3K職業で外国人労働者の受け皿だ、なんてことになっていくのだろうか。自民党だと、そっちかな。