PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

これぞ「ゲーム感覚」!?


起きてみたら、ちょっとしたクリスマスプレゼントのようなお話に出会った。


数学という名の恋人(道草学習のすすめ 2007年12月25日)

いわゆる成績優等生は
数学をおもしろがるといったことよりも
テストで良い点をとることの快感で
十分に満足しているようである。


だけど、本当に素質のあると思われる
数学(もしくは算数)大好き少年少女は
1つの問題にじっくりとことを好むことが多い。
そして、できた瞬間の得もしれない精神の開放感を楽しむのだ。


だけど、その感覚はほんの一瞬。


解けてしまえば、またつまんなくなってしまうのだ。


そこで、またそのような難しい問題を探すことになる。

ぼくは数学全般を好きだとは言えないけれども、たとえば「証明(幾何?)」なんかは好きだった。だから、この感覚はわかるつもり。


つまり、


「楽しい」と感じている時間は、


問題が解けなくて、「わからない」と感じている時間なのである。


「解けない」間だけ、自由にあれこれ楽しく「考える」ことができるのだ。


だからこそ、「考える力」も確実に育っていくのだ。


(このことから、短時間に解けるものを大量に解いてばかりいると
「考える力」が育たないということがわかるのだが、
学校の多くの定期テストではそのような難問はほとんど出題されないので
このようなパターン反復型の勉強方法を取った方が定期テストなどには有利だ…)

この「解く」ことそのものの歓びは、ある種のゲームに似ている。パズル的要素の多分に含まれた論理ゲーム。そして、そのゲームはある意味で世界の相似形だ。世界は「解いてみろ」といわんばかりの謎に溢れている。


小さい頃、なぞなぞが大好きだった子どもは多いだろう。「もっともっと」と新しいなぞなぞをせがむ子どももいる。
おとなは出題に疲れてしまうが、コンピュータゲームは、疲れを知らずにつきあってくれる。

現に、本当に数学のセンスがある生徒は
とてつもなく難しい問題に対してう〜んと唸ることが大好きだ。


これまで会ってきた、数学のセンスのある子はほとんど例外なく
単純なパターンで解ける問題を毛嫌いしてきた。


そのことを、「学校の数学はきらい」だけど「数学は好き」という表現を取る場合が多い。


小学生であれば、「学校の算数はきらい」だけど「算数は好き」ということである。

考えて解くことそのものが楽しいとき、あまりにも単純な謎は労苦でしかない。それが無数に並んでいるとなったら、これはもう「シジフォス」か「賽の河原」のような悪夢だ。
ちゃちなコンピュータ・ゲームでは謎の数が尽きてしまう。パターンが同じになってしまうこともある。なぞなぞなら「つまらなくなったからやめる」で済むのだが、学校の勉強は、そうはいかない。


「解ける」だけではハイスコアが狙えなくなると、あるいは競い合いにならなくなると、そこに「早さを競う」という要素が持ち込まれることがある。ゲームにも勉強にも。
習熟のために繰り返し練習するというのは、基本的には「考え方が身に付けばOK」に思えるのだが、指導者が身に付いたかどうかを見極められなかったり、「より早く解ける必要がある」のだと考えはじめると、生徒は「シジフォス」や「賽の河原」に連れていかれてしまう。


なぞなぞは、とんちやひねりが効いていてこそおもしろい。だから、そこ(とんちやひねり)にだけ着目することも可能だが、実はそれだって「適度な難しさ」との関係がないとは、ぼくには思えない。
自分のレベルに合致していないなぞなぞを大量に解く必要があるのなら、なぞなぞを楽しめる人はいないだろう。陳腐ななぞなぞがちょうどいいレベルの人もいれば、かなり捻ったものでなければおもしろくない人もいる。時折、なぞなぞそのものが楽しめない大人がいるけれど、彼らはどちらだろう?(ほかの軸もあるかもしれない。とんちやひねりが嫌いな人だ)


一方には「答えを知る」という歓びもある。「この問題の答えはこれ」というだけでなく、同程度の難易度でも「こんなバリエーション(類題、解き方、答え方、組み立て方、分類)がある」と知るのもまた楽しい。自分の関心がある部分については、知識が増えることもまた、楽しいのだ。これも否定されてはならないだろう。
バリエーションが豊富にあることを理解できると、そのパターンも読めてくる。パターンが読めると、自分で新たなバリエーションを考えたり、自分が考えたバリエーションが現実に存在するかを探す人もいる。具体例のコレクションに走る人もいるし、バリエーションの収集には関心がなくなる人もいる。
知る楽しみも、考える楽しみも、一様ではない。


もうちょっと言うと、「好きこそものの上手なれ」と「下手の横好き」という言葉が両方とも生き残っているように、「考えるのが好き」がただちに「考える力をのばす」かというと、例外だってある。そのことを、ニセ科学にまつわるいろいろな観察でボクらは知ってきた。


これは、世界が解ける問題だけでできているわけではないから、かもしれない。


このエントリも、「解けない」ことについての記述で始まっていた。

先日、「数学の問題などで、わからない問題があるといらつく」ということをある塾生がもらした。
だから、目の前の数学の問題を全部わかる問題にして、すっきりしたいという感覚なんだろう。
実際、こういう感じで勉強している子は非常に多いと思う。
おそらくは「解けないことに耐えられない」「期待した回答が得られない」というときに、人間はどうやってでも「自分なりに正しいと思う回答(言い換えれば、自分好みの回答)」を作り出してしまい、それを自分に対して正当化できてしまうということだろう。そこら辺の仕組みそのものは、心理学の方がたが研究してきた。どういうときに発揮されるのかも、多分、かなり具体的にわかってきている。将来は、「この推論は、こういうパタ―ンでねじれを起こしています」なんて判定もできるようになるかもしれない。
だけど、私は言いたい。


「わからない」から、おもしろがれるんだよ


と。

数学も、世界も、解ききれないことまで含めて楽しめる。それが考えることに飽きない人間への道でもあるのかもしれない。もしもそうなら、学校や家庭で、小さな子どもたちに考える楽しみを知ってもらえるさまざまな「ゲーム」「なぞなぞ」「会話」「勉強」を用意したい。そしてそれは、お金をかけなくても、手間をかけなくても、それなりに用意できそうだ。ぼくら自身が考えることを楽しんでいさえすれば、選ぶことができるから。