PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

ぼくらの中の「気づかれない子どもたち」


昨日のエントリ「コメントの構造」に関連して。


ぼくは「あの作文を独力で書いたのなら希有なことだ」と考えましたが、言い換えれば「対話などで引き出しながらであれば、到達できるだろう」とも考えています。つまり、かなり小さな子どもでも、人生に対するそれなりの知見や認識をもっていることは、珍しくないのだと考えています。
はてなブックマークでコメントを寄せていたオトナたちにも「あれぐらい考えている子どもはいるだろう」とか「子どもをなめんなよ」という指摘がありました。
言及したエントリのTAKESANさんも、コメント欄を拝見すると、ぼくと同じようにお考えのようです。


しかし、はてなブックマークでコメントを寄せていたオトナたちの圧倒的多数は、あの作文に驚いたり、いぶかしがっていました。
なぜこうした認識の違いが生まれるのでしょう?


ぼくのたどりついた結論を先に書くと「子ども時代に考えたことは、忘れられるというよりも、そもそも定着しにくいのではないか」ということになります。以下、その理由も含めて考察してみましょう。


■ぼくが間違っている可能性は?
もちろん可能性としては、ぼくやぼくと意見の同じ人が間違っているとか、例外的な体験をしていると考えることはできます。しかし、どうもそうではなさそうです。


TAKESANさんのエントリのコメント欄で、現役の小学校教員の方教育現場に近い方が次のように書いておいでです。

おそらく独力ではないでしょうが、この子の発見をすごいというのなら、それほど驚くことでもないように思います。
これほど長い文章ではなくても、子どもから驚くような発見があることもよくあります。
児童詩でもよく見られます。
もちろん先生とはいえ、一人だけのコメントでは十分ではないとは思いますけれども、現役の教員教育現場に近い方なら子どものことをよく知っているはずですよね?
※11:41修正:上記コメントを書かれた本人であるドラゴンさんからのご指摘に基づいて訂正しました。


もしもこうした知見が妥当だとすると、多くの人はやっぱり忘れているということになります。そんなことが起きうるでしょうか? そして、起き得るのだとすると、なぜそんなことになるのでしょうか?


■子ども時代に「考えたこと」は忘れられている?
ぼくも多くのコメンテーターも「子どもの頃のことについては、自分の記憶を探ることで思いだせる」と考えているようです。実は、そこが間違っているのではないでしょうか。


ぼくは「子どもがこんな文章を書くなんて」という論調に触れるたびに、14歳の少年による凶悪犯罪(と呼ばれたもの)や彼の手紙などを思いだします。
ぼくは、あの14歳の手紙を読んだときには「ああ、中学生ってこんなふうだよな」というようなことを考えました。
ところがメディアに登場する人で、「14歳ならこれぐらいのこと(文章の内容)を考えるだろうし、書くだろう」と指摘する人が、専門家も含めてひどく少なかったのです(ネットでは多少見たように思うのですが)。それが大変に不思議でした。


メディアでコメントをするオトナは、40代以上が中心でしょう。彼らが年がいっているために、忘れてしまったのでしょうか。時間の経過とともに子ども時代の記憶が薄れてしまうということはありそうです(もっとも、気づいていても、反社会的な内容だったから触れなかったということもあるのかもしれませんが)。


■「忘れられている」わけではない?
しかし、はてなブックマークでコメントを寄せていたオトナたちの多くは、本気であの作文に驚いたり、いぶかしがったりしていたのだろうと思います。はてなユーザーは、比較的若い(せいぜい30代までが中心)かなあと思っていたので、意外な気がしました。時間の経過とともに記憶が薄れるというだけなら、40代以上のオトナに比べれば忘れている人の数は多くないはずだからです。


もしも時間のせいで忘れるわけではないとすると、体験が少ないから忘れるのでしょうか? みんな子どもとの接触が少なくて、「自分の子ども時代も似たようなものだった」「いろいろなこと(危険なこともすばらしいことも)を考えていた」ということを思い起こせないのでしょうか?


■子ども時代の記憶や知見は「定着しにくい」?
現役の先生教育現場に近い方のコメントを見たことで、ぼくは「定着」ということを思いだしました。


たとえば、辞書を引いていて、「あ、これは以前にも調べたことばだ」という体験をした人は多いでしょう。同様の体験は、間隔が空いた学習で顕著です。外国語、パソコンの操作、スポーツや楽器の練習、料理などなど、枚挙にいとまがありません。習ったり練習した直後は理解し習得したつもりの知識や技術なのに、実際に使う機会がない(思い返す機会がない)と忘れてしまう。こういう経験は、多くの方が共有しているでしょう。


小学校や中学校では、先のような「いったん覚えても忘れる体験」は、「定着していない」から起きることだと考えられているようです。そのため、習った知識や技術を折りに触れて繰り返し使わせることで「定着させる」という働きかけをします。ぼくたちも日常的に「身に付いていない」なんて言いますが、同じことを指しているのかもしれませんね。


このことを思いだして、子ども時代の記憶や知見は「定着しにくい」のではないか、と考えたのです。およそ、次のように考えました(もちろん素人の考えたことなので、心理学かなにか、この問題に詳しい方がいたら、どう考えられているのかご教示をいただければ幸いです)。


■定着しにくい理由、あれこれ
定着していない理由は、「かなり時間が経っている」「思い返す機会が少ない」ということもありますが、それだけではなさそうです。


「子ども時代には、自分の考えを十分に言語化する機会がないこと」も関係するのではないでしょうか。
おとなでも、誰かと話し合ったり、文章化したりという体験がないと、はっきりとした認識にたどり着くのは困難です。そして、ぼんやりとした知見は忘れられやすいものです。


また、それぞれの体験の内容が違うということも関係しそうです。


大人の場合を考えれば自明なのですが、誰もが同じことについて考えをめぐらすわけではありません。誰でも、主にそのときに直面したできごとについて考えるわけです。ですから、子どもの頃になにに気づくかは、人それぞれです。
あの作文を書いた子どもは、その子の体験(実体験も読書体験も、親子や教師との対話もすべて含めて)のなかで、ああした知見にたどり着いたわけです。しかし、置かれた状況が違う別の子どもは、関心はほかのことに向きます。また、似たような体験をしていても、誰かとの対話や、繰り返し考える機会がなければ、あそこまでは考えが深まらないこともあるでしょう。
つまり「誰もが同じことを同じように考えるわけではない」のですが、その結果、「子ども時代には、あんなことを考えたりはしなかった」という意見も出てきます。それはその人の記憶としては正しいのでしょう。しかし、それは「ほとんどの子どもはあんなことを考えない」とか「子どもにはあそこまで考える能力がない」ということではないはずです。たまたま、その人は子ども時代にそんなことを考える必要がなかったり、そこまで考えを深める機会に恵まれなかっただけです。


■なぜ覚えている人がいるのか
ここまでをまとめてみます。
まず、子ども時代の思考は「十分に言語化されない」し「考えを深める機会が少ない」「繰り返し思い起こしはしない」といった条件が重なるために、「『子ども時代にどんなことを考えていたか、感じていたか』は忘れられ、定着しにくい」のではないか。
そして、「体験や内容は人それぞれ」なために、「子どもはそんなことを考えない」とか「そこまで考える能力がない」という思い込みを生むのではないか。
その結果、「おとな顔負けの知見をもっていてびっくり」という体験になるのではないか、というわけです。


逆に言うと、「子どもはあれぐらい考えるよ」と言う人は、数が少ないながらも「子ども時代でも、かなりややこしいことを考えた」という記憶が定着したのだと考えることができます。つまり、多少ややこしいことについて、繰り返し考えたり、言語化したりした経験があり、なおかつそのことについて後年も思い起こす経験をしたのでしょう。
こうした体験のある人は、誰かとの間で話題にしたこともあるかもしれません。そうすると、考えたテーマそのものは違っても同じような体験をしている人にも(直接であれ、書籍などであれ)出会っている可能性があります。その結果、自分が考えたのとは違うテーマや深さ、内容でも違和感をもたない、と考えることもできます。


■それは「異常」ではないが「当たり前」でもない
この文章は、たとえば「子どもでもあの作文ぐらい当たり前」とか「子どもなら誰でも大人顔負けの考えを持っている」といったことを言おうとしているわけでは、まったくありません。そうではなく「ああいう知見にたどり着くことは、あり得る」「珍しいとまではいえない」と言っているのです。


上記の考察が正しいとしても、そうでないとしても、「人それぞれ」つまり「子どもによりけり」ですから、気づかない子どもは劣っているとか、気づいた子どもが優れているということではありません。このことには本当に注意する必要があると思います。
スポーツに夢中になって上手に走る子どもや、バレエなどに夢中になって上手に踊る子どもがいて、「昆虫博士」や「怪獣博士」「鉄道博士」のように上手に覚える子どもがいるように、上手に考える子どもも上手に書く子どもも、ここに挙げた以外のことで力を発揮する子どもも、複合的に力を発揮する子どももいるのです。また、同じ上手に考える子どもでも、なにについて考えるかは子どもによりけりです(甘えることについて考えるのか、天気予報について考えるのか、ゲームの攻略法を考えるのかなどなど)。どれが優れたテーマということでもありませんし、どれが優れた能力だということでもありません。ましてや、変わっているとか異常だということではないでしょう。


また、たとえば、気づくことや考えることと、表現すること(その考えをまとめることや、大人などの第三者にわかるように伝えること)は、それぞれ別の難しさ、大変さをもっています。ましてや、あそこまでの文章にまとめるのは、仮に大人の手助けがあったとしても大変な「がんばり(集中力、苦労、努力などなど)」が必要だったのではないでしょうか。
これもまた、どのような力についても同じことが言えるでしょう。


ですから、あなたが「すごい!」と思う「子どもの力」や「子どものことば」に出会ったら、感じたとおりに「すごい!」とほめてあげてほしいとも思います。


■気づけないことは恥ずかしくない
こうして考えると、子ども時代にそこに気づかなかった自分が情けないわけではない、ということにも気づきます。繰り返しになりますが、たまたま、子ども時代にそんなことを考える必要がなかったり、そこまで考えを深める機会に恵まれなかっただけ、ということになるからです。
機会がなかったことは残念かもしれませんが、早くから人生について悩まずに済んだことを幸運と考えることもできるでしょう。


もしも上記の考察が的を射ていたとしたら、多くのオトナは、かつても今も「子どもがなにを考えてきたのか」について忘れてしまうのではなく、そもそも気づきにくいのかもしれません。いや、「自分がなにを考えてきたのか」には、もっと大きくなってから、大人になってからもなかなか気づきにくいとさえ言えるかもしれません。