PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

本に線を引かないわけ


TAKESANさんちで、おもしろいトピックが立った。エントリが公開された。


テキスト真っ白(Interdisciplinary 2008年3月22日)


大雑把に言うと、本を読むときに書き込みしたり、傍線を引いたりしますか、っていう話。コメント欄で「オレはこうだよ」なんていう話が出ているのがまた楽しい。


実は、先のエントリ「学び方に応じた教育方法」は、上記にコメントしようとして、参照資料として書いたのだ(^^;;


ぼくは本を読むときに、線を引いたりはしない。書き込みもしない。竹宮惠子の『椿館の三悪人』シリーズを読むまでもなく、欄外にギリシア語でメモをするなんて、かっこいいと思いますよ。でも、できない。まあね、しちゃいけないような気がしているのも確か。そうなんだけど、それだけが理由ではない。以下は、そういう話。


ぼくは、そもそも一度に二つのことができない。読むことに集中できないと、理解することさえできないんですよ。


仕事柄、いただいた原稿をレイアウトなり印刷なり後工程に回す前には必要な手入れをいくつものレベルで行います(理解困難な箇所の摘出、誤記の修正、語義や事実関係の確認、表記の統一、組版用の指定などなど。「全体の構成はこれでいいのかな」とか「見出しはどうつけよう」なんてことも、もちろんあります)。まずは文章を読んで理解するわけですが、ここで同時にいくつものことをちゃんとやろうとすると、ぼくは必ず破綻します。
でも、困ったことに「あっ」と気づいちゃうことは、あらゆるレベルに対して起きちゃう。だからここでは、せいぜいフセンをつけることと、そのフセンはどの部分に対してなぜつけたのかがわかる程度のメモを残すことまではするようにしています。それ以上複雑なことをすると、「読むこと」が途切れてしまうんです。いや、思い返してみると、この段階ではもう途切れてるな。で、行きつ戻りつ読み返している。
でも、このフセンをやっとかないと、覚えていられないんですよねー。数ページの雑誌記事ならともかく、書籍では絶対アウト。


ところが、このいくつものをことを同時にやれる編集者もいるんです。ぼくは辞書の編集とのときには、整理すべき事項を忘れないためのチェックシートを作ったぐらい、だめです。


ところが、これも職業柄ですが、指定や赤字が入った原稿を、すでにそれが反映された状態として読むということはできる(と思う。DTP化以後はほとんどしてないけど)のですよ。引き出し線があり、書き込みがあり、いろいろと雑音がある。これはいわゆる「読んでいる」という状況とは違うんですよね。なんだろう、検査しているという感じ。
これができれば黒猫亭さんのマーカーばりばり状態でも慣れれば読めるんじゃないか、なんて気も少しはするんですけど、きっと違うんだろうなあ(^^;;


で、こうやって作った本は頭に残るのかというと……そんなこと言ったら、百科事典を編集したヤツは超絶物識りになってますってばさ! 忘れるから次の仕事ができるんです、きっと。
いや、そりゃあある程度は記憶に残りますよ! でも、頻繁に出てきたことや、特別に印象的な出来事があったらそれに付随して記憶に残るだけです。断片的なんですよ。


で、そうやって考えてみると……


・どうやって勉強するといいか(記憶に残るか、より理解できるか)は人それぞれ
・その記憶を定着させるには、記憶を呼び戻す回数や印象の強さは重要なキーになりそう


つまり、関心を維持するのが一番の勉強法だあ!(爆)


#どうしてこう、結論を出したがるんだ、おれは。
#ってね、わかってるんですよ。
#なんか「落ち」をつけないと、「落ち着かない」んだよなあ……。
#これは職業病ではありません。子どもの頃からです(T^T)