PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

実用としての「ニセ科学の見分け方」1


ぼくは科学に詳しいわけではない。では、自分がニセ科学というものをどのように見極められると考えているのか。できるだけ原点に戻って、改めて考えてみた。


ツッコミ、お待ちしてます。


今のところこのブログでは、ニセ科学

見かけは科学のようでも、実は科学ではないもの。科学者ではない一般の人たちには科学と区別がつかない(かもしれない)が、科学の専門家から見れば荒唐無稽なもの。科学的に確かめられた事実がないにも関わらず、科学的な裏付けがあるかのように主張される事柄。
定義している。これで説明としては十分だと思うが、実際の事例に直面したときに、ぼくにとっては十分に実用的なわけではないのかもしれないと、近頃思うようになった。


実際になにかに直面したときに(たとえば連載でなにを採り上げるかを決めるとき)、自分がどう判断しているのかを考えてみると、およそこんな文脈でとらえているようだ。

主張Aが「科学的な知見とは言えない(あるいは論理的に破綻している)」内容であるにも関わらず、「科学用語などを用いて裏付けがあるかのように語られている」のであれば、それをニセ科学とみなす。
改めて考えてみるに、この「見分け方」で十分に実用的だとは言えないか。先の定義との矛盾もなさそうだ。



「科学的な知見」と言えるかどうかというのは、主に科学の手続きに則っているかどうかで考えているのだが、これは同時に「論理的か」ということでもある。科学とは無縁な方法で論理的な思考や叙述が可能なのであれば別だが、そんなことは現代においては実現可能ではないからだ。したがって、科学を自然科学に限定してとらえる必要はないし、主張Aの内容にもよるが、常に深い自然科学の知見を必要とするというわけでもない。
しかも、幸か不幸か多くのニセ科学的な言説は、形式的な論理ですら誤っていることが多い。


もちろん、知識が足りなくて、あるいは複雑な話で論理を追いきれなくて「わからない」としか言えない場合もあるが、上記に近いという程度に見極めがつけば、少なくとも生活のうえでは警戒していられる。また、調べることで見極めがつく場合もある。現状、たとえば環境問題には怪しいような「気がする」が咀嚼しきれない主張が多々ある。これを「ニセ科学だ」と呼ぶことはしていない。
かなり怪しいと判断すれば「ニセ科学的」と呼ぶことがないとは言えないが、これまでの連載でのケースでは「現状で、『可能性がある』ではなく『確認できた』と強弁すればニセ科学も同然」といった表現がされている。


第二に、これは主張する側の意図の問題ではない。信憑性を与えるために意識的に科学用語を用いたのか、うかつにも科学用語を用いたのかを問題にしているのではない。ダマす意図があるのかどうかも問題ではない。結果=主張だけを見ている。


第三に、これは多数決や意識調査などの問題ではない。したがって仮にその主張Aに触れて信じてしまったBという人物が「科学的だと思ったから信じた」わけではなくても、あるいはCという人物が「そんな主張は非科学的だ」と見破ったのだとしても、またそのような人がそれぞれ何人いたとしても、上記の判定を無効とする理由にはならない(なりませんよね?)。


第四に、「科学用語などを用いて」いるかどうかというのは、見て読んで区別がつく「道具立て」の問題であることが大半だ。用語以外には実験やら統計やらを持ち出すというのが典型例だ。ただ、どういう道具立てが「科学用語など」に合致するかという点では、明確でない場合もあるかもしれない。その場合は「グレーですねえ」ということになる。当然だが、否定的な文脈で用語などを引き合いに出している主張は別(たとえば「実験で確認されたりしているわけではないが、信じている」などという話であれば、ニセ科学と呼ぶには当たらないだろう)。


第五に、主張している側がそれを「科学的主張だ」と述べているかどうかは問題にならない。道具立てに用いられた「科学用語など」が必要な機能を果たしているのであれば、実のところその主張はちゃんとした科学的な知見と言えるはずだ。逆にそれを「科学的主張ではない」と言うのであれば、科学的な道具立ては不要だったはずだ。科学的な道具立てを用いて科学的ではない主張をしているのだとすると、その時点で根本的な矛盾をはらんでしまうことにならないか。


第六に、ここでは「結論が間違っているか、正しいか」は問題としていない。同時に並立はしないはずの前者(科学的な知見とは言えない)と後者(科学用語などを用いて裏付けがあるかのように語られている)を並立させようとするという誤りをしでかしているかどうかを問題にしている。途中の道筋がおかしくたって、正しい結論にたどりつくことはあり得る(論理的整合性を追求していれば、両者を並立させようとする論は、確率的には正しい結論にたどりつける可能性が低くなるだろう。しかし、特に「最初に結論ありき」で「対象は叩きたいものを持って来ただけ」なんていう場合は、論理的にはおかしくても結論はおかしくない、ってことはあり得る)。