PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

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【長大】穴だらけの履歴書2:「敵」はどこにいるのか【注意】


[本日は、個人的なメモ……かも。いつもにも増して長いです]


不思議な話がずっーと好きだった。いまも好きだ。


■小学生(1966〜72)
小学生のとき、4年生ぐらいだったかな、父親と道を歩きながら「もしも光よりも音の方が速かったら」という思いつきを父にぶつけてみたことがあった(ああ、もう40年近くも前だ。なんで覚えてるんだろう)。父は大学で西洋哲学を教えていて、ぼくにとっては扱いにくい人だった(父は今80歳だ。ということは、当時40代初頭だったことになる)。どんな反応を期待していたのか、自分でも分からない。
ぼくは、耳がもっと大きくなっていたかもしれないとか、目よりも耳が顔の前面に来ていたかもしれないとか、視覚ではなく聴覚でものの位置を確認するようになっていたかもしれないとか、主に人間やら動物やらの進化にからめて好き勝手な妄想を並べ立てていた。
父が言ったのは、「君の話は前提がおかしい。論の追い方はおかしくはないと思うが、前提がおかしいから意味がない」というようなことだった。
ぼくが学級のなんちゃら委員とかに立候補したとかしようと思うなんて話をすると「自分の頭のハエも追えないのに。そういうことは、もっとちゃんとしている誰かにまかせておけばいいのだ」と説教をするような人だった。
どちらのときも、つまらないを通り越して、腹立たしい反応と受け止めた。なにか反論したはずだが、よく覚えていない。


関係ないけど、いま、ぼくの子どもたちが同じようなことを言い出したら、ぼくはノってしまうに違いない。光より音が速い世界にはなにがおきるのか、一緒に考えようとするに違いない。実は、後者のケースはすでに体験した。うちの子は成績優秀でもない凡庸なヤツだが、やってみたいと思うならやれとけしかけた。


朝日ソノラマ秋田書店あたりから出ていた『世界の七不思議』のような本や、学研の『学習』の付録について来た『猿の手』を含むオカルト小冊子を何度も何度も読んだ。学校の図書室にあった『ドノバンの脳(人工頭脳の怪)』というホラーSFのような話も一気に読んだ。『光・熱・音の魔術師』という学習マンガも大好きだった。ミステリも読んだ(最初に文庫で『Xの悲劇』に挑戦したときは歯が立たなかった。『エラリー・クイーンの冒険』のような短編集だけではなく、長編ミステリも読めるようになったのは中学に入ってからだったけど)。
どれも区別なくおもしろかった。なにしろ『鉄腕アトム』『エイトマン』『鉄人28号』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』で育ったんだもんね。


■中学時代(1972〜75)
中学に上がったぐらいからだろうか、徐々にSFやマンガばかり読むようになり、科学の本はときどきしか読まなくなり、オカルト話からは離れて行ったのはなぜだったのだろう。
いや、オカルトはフィクションとしては楽しんでいた。『ポーの一族』は何度も読み返し、何巻の何ページのセリフななにとか、逆にこのセリフはどこに出てくる、なんてことを友達と当てっこするほどに読んだ(もちろん、全く当てられなかったけど)。少なくとも「吸血鬼などあり得ない」などと考えて作品のおもしろさを損ねるようなことはしなかった。
ただし、空飛ぶ円盤と呼ばれるものをUFO、未確認飛行物体とも分類することを知り、錯覚や見間違いとは断定できないUFOは実のところなんなのかと考えるような作品に触れるようになると、UFOと空飛ぶ円盤を同一視するような粗雑な世界にはつきあえなくなった。
世紀の予言(の解釈)にひそむ恣意や矛盾、思い込みを知ると、それは不思議なものではなくなっていった。


その頃には、数年前の自分の「光よりも音が速い世界」という妄想が稚拙だと思うようになっていただろう。
そんな稚拙な妄想よりも、人間の知覚がどれほど欺かれやすいかを知る方が、おもしろかった。『闇の左手』やハリー・ハリソンのような、あり得るとしか思えないが異様な世界のもつ説得力に惹かれた。
人間の特性をうまく物語に活かした作品を読む方がわくわくしたし、ステレオタイプの人間しか出てこない作品には、著しく興を削がれた。
疑いようもなく真性な話のどこかに紛れ込ませてあるマッカナウソを簡単には見破れない、そういう隅まで精密に作り込まれた作品を読むことが楽しく、そんな作品を創れるようになることにあこがれた。


■高校〜大学時代(1976〜85。妙に長い・苦笑)
SFファンジンなどに手を染めつつも、徐々にF・ヤングやアシモフなどの叙情性に惹かれ、ハードSFからは離れて行く。そういえば、サイバーパンクにはお手上げだった。
ハードSFから離れたのは、あまりにも精緻かつ微妙な論理は追えなかったのかも(追う気力がなくなったとかじゃなくて、もともと追えてなかったけど雰囲気で楽しんでいたのが、それでは楽しめなくなったとか、そんな感じかなあ)。もともとスペオペやファンタジー系は、あまり楽しめないことが多かったし、翻訳物は鼻につくことが多いとか思ったりもしていたので、なんかすごく狭い部分だけを好んでいたのかもしれない。


高校時代、「すべての文芸作品はSF(の一部)だ」という小文を書いた。どのような設定でもプロットでも、SFは包括できるという乱暴な話なんだけど、それが現代国語の教師の気に入り、学校の発行している何か(新聞だか冊子だかも忘れた)に掲載された。
するとある日、英語の教師が寄って来て、お前はSFが好きなようだが、オレは『未知との遭遇』のなにが面白いのか分からないと吹っかけてきた。未見だったくせに(当時、映画を見るにはぼくとしては大金が必要だったのだ)、雑誌から仕入れた知識だけで「SFX(いや、当時の語彙は特撮か?)がどうとか作り物の宇宙人がどうとか円盤がどうとか言われているけれども、そんなところは眼目ではない。あれは実は『種としての人類が宇宙において孤独に存在するわけではない』という主張を含んでいる。宇宙に知的生命体が人類だけでは、あまりにも寂しいという主張を含んでいる」とかなんとかいうようなことを話した……んだったと思う。すると、どういう文脈でだったか忘れたが英語教師の家に遊びに行くことになり、インドの話やアフリカの話をされた。学生時代にインド貧乏旅行をしてきて、アパートにはシタールやタブラが転がっているというような類いの教師だったのだ。別に宇宙になんか話を広げなくても、地球上でどうのこうの、ということだったのかな……。
よくは思い出せないけど、ちょっと反論できずに「ふうん」という感じで帰って来た。


二十歳を過ぎて大学に潜り込んだ前後には、近現代史の闇の部分や、動乱の時代を題材にした作品を読むようになっていた。お定まりの司馬遼太郎とかね。歴史を専攻する連中といっしょになって、そこに含まれる史実と創作に舌を巻いたり、人物像に酔ったり。『2039年の真実』で落合信彦に出会い、興奮して落合本を読みあさり、空飛ぶ円盤、ナチスの秘密兵器説でどっちらけたりしていたのもこの頃。
一方で、大学の自治会みたいなもんにも首を突っ込んだ。マルエンとか言ってる場合じゃないでしょ、ゲバ文字のタテ看やビラ書いてる場合じゃないでしょ、と、丸文字にコマ割りをした「不思議大好き」と題する講演会のタテ看を作り、「人はなぜオカルトを信じるのか」を、高熱を発している哲学科の講師に一席ぶたせたりしていた(なんだろ、ユリ・ゲラーブームだったのかな)。
まだ『朝日ジャーナル』があり、「新人類の神々」なんて連載があった。まさにその新人類と呼ばれる年下の連中と一緒に、報道される市民運動と報道されない学生運動なんてものも間近に見る。報道されない暴力の話も間近に聞く。救援センターの電話番号を語呂合わせで覚えた。
「学問の自由」なんて話に感銘を受けたりもした(マックス・ウェーバーです。時の権力からの自由、権威からの自由と……あとなんだっけ、って程度ですけど)。「法は道徳の最低限の部分しか実現できない」とかなんとかって話にも驚きつつ、なるほどと深くうなづいたり。「身近な権威を疑え」がスローガンだったりしたなあ。


■編集プロダクション時代(1985〜96)
就職して仕事関連の本以外は極端に読まなくなった。時を同じくして、音楽もほとんど聴かなくなった。
どちらも必ずしも魅力を感じなくなったわけではない。いろんな理由がありそうだ。仕事が忙しく、またどれほどつまらない企画でもそれなりにおもしろかった。新作や未読の作品や作家を追うことに倦み疲れ、ノンフィクションの面白さを知り、本を買えるお金にも読める時間にも限界があり……。英語教師の影響もあるかな。「フィクションは読まん。ノンフィクションこそがおもしろい」と言い切った編集プロダクションの上司の影響もあるかな。


それでもコミックは読んでいた。単行本も一部のコミック雑誌も買い続けていた。そして、別にオカルトを嫌うということはなかった。いまもない。
いまだって不思議な話は大好きだ。なんの不思議も含まない話はつまらない、と言ってもいいかもしれないとさえ思う。


たとえば超常現象だのオーパーツだのという本や、古史古伝に関する本、たまに買います。でも、たいていがっかりします。
たいがいの本は、焼き直しが大半なうえに杜撰なんだもん。穴だらけなんだもん。「新しいネタの仕込み」ができればラッキーだけど、それもできないことだってある。大した数の本は読んでいないのに(一方で、同じ理由で「いい本」を見逃している可能性は高いのだけど)。


フリーランサーになって(1997〜)
知り合いのデザイナーが『神々の指紋』を激賞しているのでそれをサカナに一杯やったことがあった。ぼくはといえば、高校のとき神保町の小宮山書店で買った岩波新書『失われた大陸』は楽しめたのに、二十何年かしてから出て来た『神々の指紋』はちょっと立ち読みしただけでうんざりしちゃった。どっかで読んだような話しか出てこない(もっとも、村野守美がコミカライズしていたので、そっちは買っちゃった。村野守美は、ときどきこういう本のコミカライズをしている。ノストラダムスとかダヴィンチコードのパチモンとか。いまググったらファンクラブのサイトで未発表作品『ダヴィンチの予言』8章251ページが公開されている[会員のみ]。好きなんだろうなあ)。


デザイナー氏は、この手の本を読むのは初めてではないと新宿の居酒屋で焼酎を飲みながら語った。でも、高校生のころのぼくやぼくの仲間たちと話をしているようで、懐かしいという以上に面白い話はなにも出てこなかった。ただし、ストレスにはなったらしくて、飲み屋を出たところをうろついていた見ず知らずの不良外人をつかまえて3人で一緒にカラオケに行っちまった。不良外人から1000円ぐらいで、どこかで拾ったような鼻眼鏡を買っちゃったよ。


この手の本は、少年マンガ週刊誌や学年誌の読者投稿欄に載っているギャグや小話のようなものだと思ったときもあった。
読者投稿欄には、マンガが大好きで耽溺している人間には「使い古し」のように見える「ベタ」な作品しか出ていない。そっち方面が好きなのに、ぬるくて楽しめない。しかし、中学か高校生のぼくはエラそうに考えた。ここは誰もが(って誰だ)いつか通過しなければならないところなのだ。だから、この雑誌の読者にはちゃんと存在意義があるのだと。
ありふれたオカルト本や、SFブーム真っ盛りに乱発された凡百のSFもどき(マンガでも小説でも)、どこかで聞いたような音と歌詞しかもっていない新曲。それはみんな「読者投稿欄のベタなギャグ」と同じなのだ。それが未熟だとしても、その未熟さを理由に人の楽しみを非難する権利は誰にもない(その作品を未熟だと評価することが非難されるいわれもないけど)。いきなりひねり過ぎた通好みの作品を出されても楽しめない人の方が多いのだから。読者の作品を選ぶ編集者に目がないわけではない。編集者は、それとわかってあえて「ちょうどいい作品」を選んでいるのだ、と。


ああ、エラそうなわたし。


もっとも、読者の投稿を捏造している編集者が多いことも、間もなく知るのだけど、それはまた別の話、かな。


■2007年のぼく


さて、ぼくの「敵」は誰でしょう。
40年前の父、セリフ当てをした友人、元ヒッピー的な英語教師、フィクション嫌いの上司、読み飽きたようなオカルト本しか創らない編集者、未熟な作品やその作品の支持者を非難する誰か(あるいは、批評者を非難する誰か)、『神々の指紋』好きのデザイナー、新宿の不良外人、読者投稿欄の編集者。出会って来たいろいろな作品。
それともぼく。


40年前の父は、かなりイタダケナイ存在だった。なんかエリート趣味みたいなのもあって、鼻持ちならないと思ってた。「みんながやるようにすればいい」と言いつつ、「誰もがしているということは、そだけで『正しくない』という証明のようなものだ」と言ってみたり(「みんな」が、オヤジの周囲の人々と世間一般の2種類あることが理解できたのは、大学時代か、あるいはもっと後かな)。
が、今は必ずしもヤなヤツだとも思っていない。愛すべき朴念仁といったところか。


少なくとも、オカルトや神秘主義を「面白い」とか「興味深い」というのではなく、そのまま真に受けてしまっている人が「敵」なわけではないと思う。
彼らを気の毒だと思っていたこともある。家族の不幸に直面して、新興宗教に走ってしまった人を気の毒だと思うように。けれど、今は、気の毒とは思っていないようだ。ぼくにはわからない理由で、彼らにはそれが必要だと感じられるのだろうし、ほかのものでは、その代わりにはならなかったのだろう。


10日ほど前に、父が入院した。幸い大事はなさそうだということが、今日わかった。
彼らはひょっとすると、明日か明後日のぼく自身かもしれないと、改めて思う(入院したのが年老いた父ではなく子どもたちだったら。生命に関わるのに治療法もないような難病奇病だったら。彼らが明日、急に交通事故でこの世を去ってしまったら。あるいは、ぼくやカアチャンが、ぼくの兄妹たちが急に世を去り、子どもたちが残されたら、年老いた義母が一人残されるようなことになったら。心の支えを何に求めるのか、それはわからない)。それを上から見下ろすような視線は不遜であり失礼だと思うぐらいの分別は備わったということなのかもしれない。もっと傲慢になったということかもしれない。


でも、悲しいとか切ないとは思っても、彼らを敵だとも気の毒だとも思ってはいない。思えない。


だけど、杜撰で粗雑な与汰を売り物にしている商売人。彼らがターゲットにしているのは、今日のぼくではないかもしれない。だけど、昨日の、あるいは明日の、ぼくかもしれない。ぼくの家族たちかもしれない。


あらためて、彼ら商売人を疎ましく思った春の夜なのであります。


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