PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

×××は信用できるか


某マイミクさんの日記で知りましたが『エコノミストは信用できるか』という本があるようです。ぼくは読んでいませんが、読まないうちから、あれこれ考えてしまいました。
こんなことを考えているから売れる本が作れないんですね、きっと(と、筋違いな逃げを打ってみる)。


その1■エコノミストは信用できるか
エコノミストだから信用できる/できない」などということが、あり得るのでしょうか。
信用できない人たちが高率で属している集団というのはあるかもしれません。特殊な属性でくくった場合とか(ex. 裏切り者は信用できるか、占い師は信用できるか)。だけど、そんなんでもない限り、その集団には信用できる人も信用できない人も、両方いるに決まっています。エコノミストは占い師みたいなもんだってことでもあれば別かもしれませんが、そういう話なんだろうか。



その2■この本やこの本を作った人たちは信用できるか
エコノミスト」を別の職業に置き換えれば、どれほど無意味な場合があり得ることか。そもそも肩書きでくくってる時点で、なにか意味のある問いかけに見えません。いいものもある、悪いものもある。スネークマンショーかよ。
だから著者もその本の編集者も信用しにくくなる。というわけで出版社にもジト目を注いじゃいます。


きっとこの本は「いまの売れっ子エコノミストの何人かについて、信じられるかどうかをチェックしていて、エコノミスト全体が信用できるかどうかなんか問うてはいない」のだろうと思いたいところです。しかし、その推測が正しかったとしても、この書名は「あのエコノミストは信用できるか」ではないので、読者にそんな切り口を期待させているとは思えません。ただのウソツキということになったりしないのか。


もしも、売れるだろうという理由でこのタイトルを選んだのだとすれば、ぼくはこの書名を付けた人は信じられないだけではなく嫌いです。


その3■一般に、書名は信用できるか
あんまり信用できないかも。
売らんかなで誇大だという場合もあれば、ピントがずれているタイトルってのもあるし。


ぼくが関わった本でも、あんまり入門とは言えないような本に『××入門』なんて付けられたり、そもそもすべての問題を網羅することを目指してもいないのに『××完全理解』なんてつけられちゃったりしたことがあります。著者や担当編集者の自由にはならないこともあるのは知っています。でも、そういう決定に逆らわなかったんだから、自虐的にいうと同罪なんですよね、トホホ。


ただ、タイトルの付け方は適切ではなくても内容はしっかりしているっていうことは、往々にしてあります。Amazonのレビューなんか見ていても、そういう論調のものってありますよね。


だから肩すかしはくうかもしれないけど、得るものがある場合はある。まあ「馬には乗ってみろ、人には添うてみろ、本は読んでみろ」と言えないこともないか。うわ、甘っ。


その4■嫌いなアイツは信用できるか
さっき「そんな人は信じられないだけではなく嫌いだ」みたいなことを書きましたので、そこら辺についても。


誰かがヒトをキライだと思う理由はたくさんあります。それが信用と直結するかどうかは、また別の話です。だから信用できる相手でもキライだということもあり得ますし、キライじゃない、むしろ好きだけど信用できないということも、当然あり得ます。


でも嫌な目にあった相手を肩書きとかの属性で一般化しちゃうっていう心理はありますよね。この書名はそういう偏見や間違った方法論をはびこらせるのに一役買う可能性はありますよね、きっと。


さらに誰かが「あいつはキライ」と言ったからって、その「あいつ」の意見は採用できるのかできないのかってこととは、まったく別の問題。


その5■アンケートや調査結果、実験結果なら信用できるか
話が飛びますが、個人の意見じゃなくて調査結果や実験結果なら信じられるのか。調査結果だ実験結果だと自称してたってダメダメな調査も実験もある。だから調査結果だから実験結果だからと信じられるわけではない。


激苦笑アンケート:鈍感なのか計算づくか
http://shibuken.seesaa.net/article/55046207.html


ダメなアンケート・オン・パレード(3)
http://shibuken.seesaa.net/article/36279300.html


「こういう調査と分析をする人たちは信用できるか/できないか」という判断材料にはなると思う。


その6■××批判は信用できるか
というわけで、「××批判」だから信用できる/できないなんてことはあり得ない。
「いわゆる××批判は多くの場合、こういう誤謬を犯している。したがってその多くは信用するに値しない」ということはあり得るけれども、それも「いわゆる」「多くの場合」であって、やはり個別の具体的な論を検討しないと、なんとも言えないわけだ。


その7■じゃあどんなヤツのなにが信用できるんだよ
誰かは「人を見ずに論を見ろ」と言いました。もっともです。


でも、「かつてダメな論を展開した人」を警戒するのは正常な判断でしょう。いわば歩留まりが低い論者という評価になる。眉につばをつける方向では「人を見る」のもある程度有効だと思います。
逆に「かつてよさげな論を展開した人」に対しては警戒心が働きにくくなりますが、えらい学者がダメなことを言い始めるケースはいくらもあるし、自分のよく知らないことについていい加減なことを語り始める場合も少なくありません。「人」と「テーマ」の組み合わせで判断したほうがいい。


つまり「どんな人がなにについて語っているのか」「どんな出版社から出ている本なのか」「どんな番組で言われていたことなのか、どんな局の番組なのか」などは、ある程度有効な判断材料になると言えるでしょう。


実は、ぼくはほとんど誰でもなんでも信用してしまいます。
それなのにこういう記事ばかりが増えるって、どういうことよ。