PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

『水からの伝言』と「表現すること」の越えられない谷間


以下の文章は「表現すること」と「水からの伝言」が示す世界観の関係を考えたものです。とくに表現する者にとって、どういう意味があるのか。ニセ科学かどうかではありません。


簡潔に書く能力に欠けているために、長い文章になってしまいましたが、それでも、まずはきっかけになった文章や意見を整理してみるところから始めたいと思います。


■きっかけになった3つの発言
先日のエントリに採り上げた「博士の知らない日本のウラガワ」のニセ科学の回で、水道橋博士がこんな疑問を呈していました。
「芸能人やアーティスト、表現者といった方々のなかで、『水からの伝言』にハマっている方が何人も見られるのはなぜだろう」
これに対して、唐沢俊一氏がこんな主旨のことを言っていました(文面は記憶による大意です)。

権力者や表現者の方々には、偶然としか思えない、なにかと紙一重のような僥倖で今の自分がある、という強い思いがある。しかし、それを偶然とは考えたくない、自分の実力なりなんなりといった必然の結果と思いたい。なぜ成功したのかということについて、不安やあやふやな気持ちがある。なかなか「自分は、こういうわけで成功したのだ」という確信に至れない。だから占いや『水からの伝言』のようなものに引っかかりやすいのではないか。
唐沢氏は「成功」に焦点を当てて考えています。そういう面はあるだろうと思いつつ、同時に、それだけではないのではないかという思いもありました。そのままになっていたこのことを、もう一度考えるきっかけが、poohさんの〈「誰か」から「誰か」へ〉(Chromeplated Rat 2007-05-23)にありました。
そこで紹介されていた〈科学の目〉(天の森だより 2007-05-22)には、
確かにこれは学者さんからすれば「ニセ科学」なんでしょう。
という一文があり、ここに強いもどかしさを感じました。「科学的に正しいかどうかということの意味」とか、「仮に科学的に正しかったら、それを人生にいただきってことでいいのか」とか、朝から頭がぐるぐるしちゃいました(いや、そんなことを「天の森だより」さんが書いているわけではないんですが・汗)。
ただ、「天の森だより」さんは
思いこみや偏見のめがねをはずして/すなおなこころで いろんなひとの言うことに一応耳を傾けてみると、/自分の中に 大切にしたいことがみえてくる気がします。
とも書いておいででしたので、気を取り直してキーを叩きはじめた次第です(朝食後、午前中の大半を費やしてしまった(-_-) 朝からオレもどうかしてますね)。


「天の森だより」さんやpoohさんの本意とは異なるかもしれませんが、また、話をややこしくしてしまうだけかもしれないのですが、自分も表現する者・伝えようとする者の端くれでもあるので、自分のためにも改めて考えてみました(ぼく、書いたり編集したりだけじゃなくて、バンドもやってたりするんですよー。ヘタの横好きですけどね)。
そしたら、“『水からの伝言』が真実とされたとき、すべての表現は衰退の道をたどり、すべての表現者は「たった一つの目的」のために奉仕することになりかねないのでは?”という、「こわい考え」になってしまいました。
そこにたどり着く道筋を、順にたどってみたいと思います。


■「伝わる」と「伝わらない」の狭間で
「自分の中に伝えたいことがあって、表現したいことがあって」(poohさん)、必死の努力を重ねている方のなかには、どうしても割り切れない思いが残ることがあるのだろうと思います。「伝わるときと伝わらないとき」あるいは「伝わる相手と伝わらない相手」がある。いったいなにが違ったのか。
そこに着眼したとき、「理屈ではわからない、なにか特別なことが起きているのではないか」と考えたくなってしまう。
思いつく限りの準備を整え、全力を尽くした公演が必ず成功するわけではない。また、同じ公演ですべての人に思いが伝わるわけではない。一方で、力を抜いたときに伝わらないのかというと、どうもそういうことでもない。「なぜだ!?」という思い。これは私にもわかるつもりです。


「伝える誰かを持たないかたちだけの言葉」(poohさん)が薄っぺらでなんの真実も含まないものであることは疑う余地はありません。それなのに、そうした「形だけの美しい言葉」がどんなときよりも、どんな言葉よりも人の心をとらえることがある。それはなぜなのか。
表現された内容やパフォーマーの努力や修練、テクニックだけのためでないとすれば、コンサート会場の音響効果や照明効果といった環境やテクノロジーのため、パフォーマーのルックスといった視覚的印象のため、席順といった観客個々の物理的な条件の差のためでしょうか。
断じてそういった皮相な条件の違いのため「だけ」などということはない、ということは、おそらく多くのパフォーマーの方が痛感していることでしょう。


同時に、会場がどうのという例と同様に、言葉の選択で水がどうにかなるなどといったことが、思いが伝わったり伝わらなかったりする理由であるわけもないでしょう。たとえばコンサート会場に巨大なポスターかディスプレイででも「ありがとう」と表示すれば成功するなどということであれば、そんなに楽な話はありません。逆に「バカヤロウ」の一言で会場が一体になれるようなステージだってあるはずです。どちらの場合であっても、そうした表明が観客にとっても意味をもつためには、それが誰の何に向かって、どういう意図で発せられたのかが重要なはずです。


■奇跡のような「伝わるとき」を支えるもの
あるシーンを取り出したときになんらかの効果があった理由を考えるのならば、そこに備わっている無数の条件が首尾よく合わさった結果(どれかひとつが、ではなく)なのではないか、と考えることができます。しかし、どこまでも条件をそろえようとしても、どうしてもそろえられないのは、観客一人一人の気持ちです。さまざまな事情を抱えている個人個人の内面を、同一の条件にすることなどできないからです。


古い言葉では「一期一会」が、このことを指しているのではないでしょうか。あるいは「縁」や「えにし」といった言葉。人智を超える、奇跡的な偶然の力と言ってもいいでしょう。持って生まれた「華」がある、などというように、生得的に必要な条件の一部を備えている人もいることでしょう(カリスマでもなんでもいいですが)。
しかし、それは「制御しきれない」とか「並の人間にはなかなか到達できない」ということであって、まったく人のなせる技ではないということではないはずです。修練を積み、心を砕くといった努力によって到達できる部分がかなりあるはずなのです。


あるいは、これはまさに「人の心」の問題だということもできるかもしれません。「受け手一人一人の心の問題」です。しかしそれはスピリチュアルな言説に言うような怪しげな心霊や魂といった話ではありません。一人一人の心のありようが違う、しかも、そのときどきでも違う、というごく一般的な観察と経験から導き出せる「心の問題」です。


当然ながら「人の心」は、受け手の側だけにあるものではなく、表現者の側にもあります。「人の心」は「思い」と言い換えてもいいかもしれません。表現力といった技巧だけでなく、またそこに盛り込まれた内容だけではなく、込められた「強い思い」というものの意味。
こんな風に言うと、「思いがなければ伝わらない」とか「思いがあれば伝わる」というときの「思い」とか「思いの力」といった言葉を思い浮かべる方もいるかもしれません。しかし、そうした文脈で言われる「思い」は、往々にして「思うことに意味がある」「強く思えば成就する」といった話であることが少なくありません。これには私は首をかしげてしまいます。
まず「思い」がなければなにも始まらないという意味で、思いの力というのは無視できません。また、ぼんやりとしたあやふやな思いよりも、持続する、確固とした、強い思いが、より人の心を打つことが多いということは言えるでしょう。別の言い方をすれば、「信念」「信仰」「確信」といったものかもしれません。
一方で、その思いを文章や歌で伝えるためには、言葉の選び方が重要になります。言葉を音階(音列)や、絵画であれば色や形、筆遣いといったものに置き換えても同じでしょう。同じ言葉(音階、音列、色、形などなど)でありさえすれば、誰が使っても同じなわけでもありません(かなり近くはなるかもしれませんが)。しかし、それは「思い」だけが重要なのでもなければ、言葉だけ、語り手だけが重要なのでもないはずです。なにか重要な働きをもつ一つだけを取り出すことができても、それだけが意味をもつわけではないはずです。
もしも「信念」「信仰」「確信」といったものがありさえすればそれで十分なのだとしたら、表現することや行動することに、そこに意をこらして努力することにどれほどの意味があるのでしょう。


表現者自身の心もまた、完全にコントロールすることは至難の業です。自分の心であっても。
人の力だけでは制御しきれない条件があり、どれほど努力しても才能があっても、それだけで達成できるわけではない。どれほど努力しても100%常に再現できるわけではない。
それでは不満かもしれません。不安かもしれません。でも、不満があり不安があるからこそ、もう一度挑むのかもしれません。工夫を凝らし努力するのかもしれません。だとすれば、不満や不安にも大きな価値があるということもできるでしょう。


逆に言えば、常に再現できることに、どんな魅力があるのでしょう? 確実に再現されるものなどないからこそ、同じものなどないからこそ、作品が今後も生み出され、パフォーマーが何度もステージを踏むことに意味があるはずです。不満や不安があるからこそ、誰もそこから自由になれないからこそ、それを克服すること、克服しようと努力し行動することに意味があり、歓びがあるはずです。仮に成功することができなくても。


■『水からの伝言』や『百匹めの猿』の示す世界
いったんそろえるべき条件さえ見いだせれば(しかも「ありがとう」レベルの条件を。「百匹めの猿」なら「共感してくれる観客を一定数そろえれば」ということになるでしょうか)、それだけで思いが人の心に届くのだとすれば、新しい作品やステージで意をこらして工夫したり努力したりすることは不要になってしまいはしないでしょうか。そもそも新しい作品や次のステージそのものが不要になりはしませんか。


これは「完全なオーディオビジュアル環境」というものが実現して、茶の間でライブが完全に体感できるということになったとき、コンサートホールやライブハウスはいらなくなるのだろうか、といった問いにも似ています。そこで繰り返し再生できる音源さえあれば、実際の場や人間は音源の供給源という以上の意味を失うのでしょうか。たった一度「完全なステージ」が実現すれば、以降のパフォーマンスは不要になるのでしょうか。新しい取り組みは不要なのでしょうか。
それとも、「人の心」や「思いを伝えるということ」は、音響機器や照明機器のような、演出の一翼を担う新しい道具なのでしょうか。新しく編み出された演奏法や歌唱法のような技巧のひとつでしょうか。だとすれば、そんなものは表現の根幹にはなんの関わりもないものではありませんか? それで人の心が本当にどうにかなるなんてことがあるのでしょうか?


いや、ひょっとするとその条件をそろえるという「ただ一つの目標」に向かってあらゆる作品もステージも作られて行くことになるのかもしれません。いったんそろえた条件を崩さないことだけに意がそそがれるのであれば、そこにどんな意味があるのでしょう。それは新たな家元主義の始まり、新たな教祖、新たなカリスマの誕生かもしれませんね。


考え過ぎだとは思いますが、『水からの伝言』が真実とされたとき、すべての表現は衰退の道をたどり、すべての表現者は「たった一つの目的」のために奉仕することになりはしないでしょうか。
いや、そんなわけはありませんね。すべての人を承服させることができるなんてのは、SFかなんかのなかでしかなし得ないでしょう。現代において戦時下の日本のように思想統制ができるとはぼくも思いません(近いことはできるのかもしれない、とは思いますが、まあ、それは別の話)。
しかし、『水からの伝言』や『百匹めの猿』は、明らかにそうした世界の芽をはらんでいます。逆から言えば、多様性の芽を摘みかねない危うさを秘めています。ナチスの大ドイツ芸術展や退廃芸術展にも似た芸術観に近づきかねないとも思います。


表現者たちこそが、『水からの伝言』や『百匹めの猿』などの言説に「ノー」と声を上げていただきたいと、切に願わないでいられません。


実はこの問題は表現にのみ関わる事柄ではないとも思っています、そちらについては昨年書いた「『水伝』を受け入れるということ」も併せてお目通しいただければと思います。