PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

【メモ】思考力が先か,知識が先か


知識の絶対量も問題では」(事象の地平線 2007/11/27)経由で「小中学生理科、考える力身につかず 国立教育研究所調査」(asahi.com 2007年11月27日)を読みました。
大元の調査結果「特定の課題に関する調査(理科)」(国立教育政策研究所 2007.11.28)は未読。だって、大部なんだもん。だから、ここでは朝日新聞が書いていることが研究所調査から言えることなのか、研究所はどう言っているのかといったことまでは考えません。


「事象の地平線」ではapjさんが

 考えるといっても、それには経験が必要では。知識が少ない状態で考えても、トンデモに突っ込んで玉砕するだけのような気がするが……。
と指摘されています。正論ではありますが、それで思い出したことがあったので、メモとしてエントリを起こすことにしました。


マスコミにはしばしば「知識が先か、思考力が先か」みたいな話が出て来ます。正直、ボクはうんざりしています。どっちも必要なのは自明で、どちらかが足りなければ推論が必要な問題では正解にたどり着けない確率が高まるのは当然ですよね。だから「どっちが先」という議論には馴染まない、というのがボクの立場です。


まだうまく説明できないのですが、ちょっと挑戦してみます。
必要なのは「知識」「思考力」そして「経験」ではないか、というのがぼくの立場です。


「正解にたどり着くのに最低限必要な知識」というのは、「与えられた命題そのものに対する答え」である必要はないですよね。すでにある知識を選び出して組み合わせて、そのうえで推論すれば正解にたどり着けてもおかしくないという状況が整っていれば、あとは考える力の問題というか「知識の活かし方」の問題になるわけですよね?
ただ、ここであり合わせの知識を使って考えることで正解にたどり着くためには、思考のパターンといったようなものを身につけている必要があります。推論の方法と言ってもいいかもしれない。これは、知識として知ることはできるけれども、身につけるためには使ってみるという経験を経たほうがいいでしょう。いや、ふつうは必須かな。で、そういう「知識や経験はあるのに正解にたどり着けない」ということになって、初めて「考える力の問題だ」ということになるのだ、とボクは理解しています。


前述の調査について言うならば、まず「知識」「経験」があることが確認されていないと、「その両者に基づいて考える力」を計るなんていうことはできないはずです。たとえば、まず前段(以前の調査でも、今回の調査の第一ステップでも)で必要な知識や基本的な推論のパターンを習得していることを確認して、それから実際に推論に進むとか、そんな構造になってないと「学んだはずの知識や経験が定着していないから正解にたどり着けない」のか「思考力が不足していて推論ができていない」のか、論じられませんよね? もしもそれができていない調査なのであれば、「どっちが問題なのかはわからない」が正解では?
この調査でその辺がどう扱われているのかは未確認ですが、考え方としては、そうですよね?


逆に言うと、そうした確認ができている調査なのであれば、そこで「知識の有無」を問題にするのは的外れだということになります。もしもそれが問題になるのであれば、それは言ってみれば「調査方法の不備」についての話であって、そこで思考力の有無だのなんだのは問えないということになる。
その観点からは、「事象の地平線」apjさんの指摘は正論でありながらも、記述が短すぎるためにどこを問題にしているのか見えづらく、危ういと感じます。apjさんが上述のようなことを念頭に置いていないとは考えにくいので、読む人がどう受け止めるかを考えるとコワイ、といった感じの危惧ですが。


というのは、マスコミやブログ界で散見する教育論に見る「まず知識が必要」説は、ここら辺がごちゃごちゃで整理されないまま論じられていることが多いという印象があるのです。ややこしいのは、思考のパターンを学ぶために必要な知識もあるし、型などを含めた知識を理解して使いこなせるようになるための経験もあるし、と「相互乗り入れ」が生じてしまうこと。マスコミ等が言う「知識」は、「その命題そのものについての知識」を言っているようにしか見えないときもあれば、もっといろいろなものを含めて「知識」と呼んでいるように見えるときもあるのですが、それが世間に出て行くと「経験」や「推論の方法(思考のパターン)」などは抜け落ちていくことが多いようにも思っています。
もちろん、上記はいずれも印象に基づく疑念であって、ちゃんと裏を取れているわけではないので、ほんとに粗いものなのですけどね。


書いていてもうひとつ思い出したのが、下記のブログの記事。愛読していて、このブログでもときどき紹介しているtoshi先生の記事です。


PISA調査から見えるもの 〜考察〜」(教育の窓・ある退職校長の想い 2007年11月16日)


PISA 2003や先頃の全国学力検査に触れつつ、

ここからは、古くから言われる、『まず、知識・技能の基礎基本。それから、思考力・活用を。』が間違っていることに気づくだろう。両者はともに育んでいくのだ。
と述べるくだりがあります。関連エントリをあちこちたどって読んでいただきたいので、長々と引用はしませんが、同様の主旨のことは、このブログでは何度か主張されていて、ボクはこれに共感しています。


ただ、ボクが危惧するのは、ここで言われるような「まず知識」が、あまりにも広く適用されることです。「知識不要」「知識は思考力よりも軽視していい」などということを言いたいわけではもちろんありません。これはtoshi先生も同じはずです。
どうも「知識」にしろ「考える力」にしろ、そもそも「学力」という言葉にしてから定義が曖昧で、議論の精度を下げるよなあ、なんてことも思うのでありました。日常語なのでしかたがないという側面もあるとは思うのですけどね。


あ、おまけ。
「自分の知識では(あるいは、いま得られている情報では)答えを出せない(または出せる)」と判断するためには、「判断するために必要な知識(情報)はなにか」を推定する能力が必要で、これにも経験が必要だろうとも思います。しかし、これだってその命題のケースそのものの知識・経験が必須だということではないですし、ある種、同様の思考(推論)の形を学んでいれば判断可能なのではないでしょうか。
ボクにとってニセ科学の問題が「合理的に思考できるかどうか」の問題であって、必ずしも科学知識の問題ではない、というのはそんなことでもあります。