PSJ渋谷研究所X(臨時避難所2)

はてダ http://d.hatena.ne.jp/kamezo/ からインポートしただけ

「神の手」:善意への報酬


同じチェーンメールでも「神の手」みたいなものは、人の幸せを願うもので罪がないよね。


そう思っている方がいたら、下記を見せてあげてほしい。


ある掲示板の記録
http://kameo.jp/kaminote/


元はTrackFeedから見つけたものだ。ハンドルを変えて、神の手以外の画像は削除してある。


大きな悲劇ではないかもしれない。そうだ、ささいな行き違いだ。
しかし、小さくても、悲劇だ。同じことは、いまもあちこちで繰り返されているに違いない。しかも、終わりはないのかもしれない。


「そんなことを言うなら、お前が調べなければよかったじゃないか」という人がもしもいるなら、こう返事をするしかない。誰かは「なんだったのか」に気づいてそれをどこかに書く。「神の手」だって、ぼくが調べる以前にあの出所を知っている人がいた。そして、調べる方法がある以上は、誰かがきっと調べる。
「わざわざ知らせなければいい」「知らなければよかった」では逃げられない。気づいてしまう可能性はなくならないのだ。


そして、今回、「白人のお尻画像を加工したCGだ」という誤解も見た。あらゆる情報は、どこかで伝言ゲームのように、ねじれるのだろう。ねじってしまうのは、自分かもしれない。間違わないように必死に気をつけるにしても、その情報を見た人がねじってしまうことはある。それは避けられない。「知り合いしか見に来ない」はずの掲示板やブログだって、いつ、誰が見つけ出すかわからない。


昔から言うように「書いたものは、一人歩きをする」のだ。そのリスクは、物書きだけでなく、素人の日記だって同じだ。覚悟して書くしかない。「ネットは怖い」という話ではない。「人目に触れるところにものを書くのは怖い」のであり、ネットがどれほど手軽であっても、その怖さはテレビや大新聞、単行本、雑誌などと同じだ(注目度の差が、たいがいの場合はあるので、発覚しにくいだけだ)。しかも、いっしょに頭を下げてくれる編集者などは、いない。






先日、こういうサイトがあるのを知った。


チェーンメールは悪
http://break-chain.cycling.jp/

インターネットのルール


インターネットのルールは RFC というドキュメントにまとめられています.RFC 1855「ネチケットガイドライン」というドキュメントの 2.1.1「電子メールのガイドライン」の中で,チェーン・レターの電子メール版であるチェーンメールについて「インターネットで禁止されています」とはっきり書かれています.チェーンメールを送ると「あなたのネットワーク利用権を無効にされるでしょう」と,ネットワークでの死刑に相当する悪であるということを示しています.


明解。
現在のブロードバンド環境ではリソースを食いつぶすかもしれないということは、あまり重視されないかもしれないが(ぼく自身、そう思っていたところがある)、問合せなどが集中すればやはりサーバーを落とすなどの「攻撃」となるし、なによりも次のような現実がある。これはぼくも目の当たりにしていながら、忘れていた。

チェーンメールは一度転送され始めると完全に止めることはもう誰にもできません
(略)
同じ内容のチェーンメールをなんども繰り返し受け取ることを想像してみてください.相手にチェーンメールは止めて下さいと説明しても,また別の人がチェーンメールをあなた宛に送ってきます.
何度でも、いつまでも、同じ被害を生み続けるのだ。
もし,あなたがチェーンメールを誰かに転送してしまった後になってから,問題に気がついた場合はどうすれば良いでしょうか? (略)新たなチェーンメールを生み出すことはやはり悪です.あなたはチェーンメールを送りつけ,お詫びの一言もないと人から非難されるかもしれませんが,チェーンメールのお詫びをメールで送りつけるべきではありません.
いったん加担してしまったら、自分が「対策はないという現実」を引き受けるしかない、ということだ。



チェーンメールは、必ずと言っていいほど身近な知り合いから来る。しかも、善意を無下にすることは難しい。「やめれば」という話をするのも難しい。チェーンメールという言葉なんか、知らない人もいる。


だから、いっそ、こう言い直そう。


 無責任なうわさ話を信じてはいけません。
 うわさ話をするのは、お行儀の悪いことですよ。
 いっしょになってうわさ話をするのは、それを広める手助けをするようなものです。


オレハ、クチヤカマシイ乳母デスカ(T^T)

咀嚼できない暴挙:旭川大学江原啓之が講義?


なんか、いろいろジタバタしているうちに、あちこちで火の手が上がっています。


江原啓之が旭川大学の客員教授になる件(kikulog 2008/2/27)


スピリチュアル教育(Chromeplated Rat 2008-02-27)


江原啓之が大学で講義する件(事象の地平線 2008/02/27)


江原啓之を教員に迎える旭川大学の「見識」(世界の片隅でニュースを読む 2008/01/22)
江原啓之を客員教授に迎える旭川大学学長の言い分(世界の片隅でニュースを読む 2008/02/15)


江原啓之「大学教授」就任 スピリチュアルではなく「生命倫理」教えるJ-CASTニュース 2008/2/26)


江原さんが大学で講義?(瀬戸智子の枕草子 2008.02.29)



■介護者の前で立ちすくんでしまう
立ちすくんでしまったのは、地元の方の下記の記事。URLは記さないでおく。


実母の自宅介護をされている方。勤務先は医療機関のようだが、職種まではわからなかった。

旭川大学看護学部の講師に江原さんが・・・。
2008.01.17


今朝のUHB放送に出演していた「江原啓之」さんの隣でキャスターの「のりゆき」さんが言っていた。


旭川大学の講師」で・・と。


看護学部の緩和ケアや生命倫理の講義をすることに・・・」と江原さん自身が言ってました。


「えー旭川大学看護学部があったかな〜」と検索したら、今年の4月に開講することに。


江原さんが(親しげに書いていますが、実は私は数年前からサポーーターズクラブ会員)高野山大学で講演したり、緩和ケアに関する講義をあちこちでされていたことは知っていたけれど、大学の講座で講義を担当することになる・・というのは正直言って「時代もここまで来たんだな〜」と沁みじみ・・。


「科学的思考」の権化のような教育を目指した時代を知っている私は、看護学部の、例え科目が「緩和ケア」や「生命倫理」であっても講師に「江原さん」を依頼するということが
「すごい」ことに思えてしまう。


そしてその次の感慨は「いいな〜。私も聴きたい!」


その次は「どうやって講義依頼をしたのかしら・・。
イルカさんのご主人がパーキンソン病で長く旭川の病院に入院していて、亡くなられたということだったから、もしかしたら、その時の何かしらのご縁だったのかしら・・」と想像をたくましくしてしまった・・。


「個人的なカウンセリングはしない」と言ってらしゃいますが、江原さんの語る内容に癒される学生も多いでしょう。


講義の中で「イメージ療法」のようなものがあれば、それだけで、もやもやが晴れる人だっているにちがいありません。


看護の世界に「江原さん」がこんなに正式な?形で入ってこられることを喜びたいと思います。


これで、私も今までよりずっと「江原さん」や「美輪さん」を語れるようになると思います・・。

この方は「死んだら人間はゴミ」と繰り返し吐き捨てるように言っていたお母さんが、80を過ぎて「そんなこと、言ったかねえ」「誰かの受け売りで言ってたんだよ」と変わっていくさまを驚きとともに見ている。神秘体験や超常現象を受容している(または、そのように見える)作家などの言葉に触れ、共感している。
ずっと介護をして来て、やっとお母さんと死後の世界の話ができたとき、そんな話もし、自身も神秘体験があると言うと、「死んだらゴミ」と言っていたお母さんが「わたしもある」と言い出した、ということを驚きとともに綴っている。


■介護者がスピリチュアルカウンセラーに期待するもの
この方がスピリチュアルカウンセラーなるものの講座に期待しているのはなんだろう。なにか活用可能なことがらではないように思える。慰謝、癒し、介護者が直面している苦痛の緩和、そんなことなのではないだろうか。もちろん、終末期を迎えた実母にどんなふうに接するかということもあるのだろうけれども、この方のブログからは「介護者自身が救われないでいる」という思いがひしひしと伝わってくる。


本当なら、この方は、ふつうの意味でのカウンセラーやソーシャルケースワーカーの手助けを必要としているはずなのだ。しかし、医療機関に勤務しているらしいにも関わらず、そうした専門家への期待でも、宗教への期待でもなく、スピリチュアルカウンセラーへの期待がある(読み取れなかっただけで、両方あるのかもしれないけれど)。


周囲の誰彼を考えても、病院のカウンセラーや精神科や心療内科の医師、ソーシャルケースワーカー、弁護士などなど、ぼくなどが困ったときに相談してみればいいのにと考える専門家たちへの評価というか「期待度」がとても低いことが多い。しかも、どうやら「怖い」と思っている節がある。そのことには何度も驚かされた。親戚を見回しても、我が家の子どもたちを見ても、知人を思い起こしても、だ。すべてではないが、多い。スクールカウンセラーに裏切られたという体験を述べたお母さんもいた。しかたがないことなのだろうか。そうは考えたくないのだけれども。


遠回りなようでも、そうした「本来の意味での専門家」への信頼の回復もまた、重要なポイントになりそうに思う。


■安易なスピリチュアリズムの擁護や依存が危険だ
この人を責めることも否定することも、鬼の所行だと思う。しかし、責めなくても、否定しなくても、「スピリチュアルカウンセラーを名乗る人物を、大学が講義をさせるために受け入れることがおかしい」という指摘にも、この人は傷つくだろう。この文章を読むことがあってもなくても、賛否両論があると知るだけでも傷つく可能性はある(いやまあ、賛否両論あることは最初からわかっているとは思いますけどね)。
では、それは鬼の所行ではないのか。どれほど違うというのか。
おそらくはどのような主張も(批判でなくとも)、誰かしらを傷つける可能性はある。そこは自分で折り合いをつけるしかない。頭をひとつ、ぶんと振って、考えることにする。


以前、「誰が『祈り』を踏みにじるのか」でも書いたように、ぼくは安易なスピリチュアリズムは一時しのぎにしかならず、それで救われることはないと考えている。現代医療を対症療法中心と批判する者がいるが、安易なスピリチュアリズムこそ、その場しのぎの対症療法でしかない。しかも、虚偽であるわかっていてなされた言説だったとすれば、それを知ったときの絶望は深いだろう。


安易にスピリチュアルな言説をする者。彼らが踏みにじっているものは数多い。宗教、科学、道徳、真理、真実、信頼、期待、希望、正義……多くの人が価値あるものと尊んで守り育ててきたであろう概念が、独りよがりの思いつきやその場限りの出任せで泥を塗られていく。
(略)
最も守られがたいもののひとつに、一人一人の「祈り」がある。叶えられると信じる理由がなかった「誰それを苦しめたくない」という願いが、「苦しみませんように」という祈りを生む。
(略)
宗教ならば教祖や僧侶にあたる者がいて、ともに、あるいは代わりに祈るかもしれない。しかし「宗教ではない」ときにそうした装置はない。つまり、彼らの思いを代表(代理)して守ってくれる人はいない、そうではないだろうか。


スピリチュアルな言説をする者が「確認不能な真実」を語っているのだと信じるのならば、それは止めようもない(彼が、あなたの代わりに祈ってくれることが本当にはないとしても、祈ってくれると、あるいは祈りを省みてくれると期待することはできる)。しかし、「真実ではないかもしれないが」という前提付きで、「それでもかまわない」と彼らを擁護するとき、そうした祈りや願いはどうなるのだろう。その刃は批判者の方だけを向いているのではない。


できる範囲のことしかできない。だからこそ、「そちら側」には行きたくないのだ。
なにかを信じるとすれば、誰もがそう考えているのだと信じたい。



旭川大学の学長は、「そちら側」に行ってしまったのか?


■どうしてもスピリチュアリズムを大学に迎えたいならば
スピリチュアルカウンセラーを名乗る人物を、大学の教員(大学でなにかを教える人)として迎えることは言語道断だとぼくは考える。しかし、あえて考えてみる。それができる条件があるだろうか。いや、その学問領域や技術の修得と直接の関係はないが、役に立つかもしれないような人物が、本当に役に立つと判断するためには、どういう考察が必要だろうか。


こんな感じになるだろうか。


  1. スピリチュアルカウンセリングの実態を、第三者が確認可能な方法で明らかにする
    (それが霊能力であれ、コールド・リーディングホットリーディングなどのトリックであれ、なにをやっているのかを明らかにする。そうしなければ評価も検証もできないからだし、これまでにどのような意味でも「第三者が確認可能な方法」評価されたことがないものだからだ)
  2. そのうえで、共有することで有用な結果を導くであろう部分を抽出する
    (当然だが、共有できるとしても、それが有用であるかどうかは評価する必要があるだろう。だって、こんなものを教育に取り入れた前例は、江原が行っていたというイギリスの心霊アカデミーみたいなところぐらいしかないはずで、そういうところと一般の大学を同一視する必然性はない。ペテンでも何でも、まずは「有用ならオッケー」だということに、今はしておく)
  3. それが有用であることを、なんらかの第三者が確認可能な方法で検証する
    (実は、ここがいちばん難しいのではないか。「有用かもしれない」とは言えても、実際に教育に用いられたりしないと、「有用だ」とはなかなか言えないだろう)
  4. 有用であることが明らかになった部分について、方法論や考え方を提示する
  5. その方法論や考え方を、学生と共有できるようなレクチャーを組み立てる


最後の2項はそれ以前の部分がクリアできれば楽にクリアできそうな気も、そうではなさそうな気もする。
しかし、これは「スピリチュアリズム」のすべてを暴くことになり、スピリチュアリズムの否定になるのではないだろうか? それとも、ホグワーツのような修行の場でも思い描けば、オッケーなのだろうか。


直接の、そしてその場しのぎの慰謝以外に、なにがしかの技術なり考え方なり、共有可能なものをスピリチュアルカウンセラーから得るのだとすると、こうした条件はクリアされている必要があるのではないだろうか。
そして、いったんは保留にした問題もある。ペテンでも何でも、まずは「有用ならオッケー」だということで、本当によいのか、ということだ。ターミナルケアや介護のための方便として詐術めいたものを学ぶ……それがいいことなのかどうか、ぼくにはわからない。


実際に教育機関で行われていることが、すべてこのような手順で確認されているとは思わない。新しいジャンルの講座など、こんな手順を踏まなくても開設されているだろう。しかし、それは歴史的にというか経験的にというか、「この手のものは、だいたいオッケー」というような蓄積があって判断されているところがあるだろう。心霊治療のようなものに、そんな蓄積があるとは言えまい。


■このスピリチュアルカウンセラーと緩和ケアの関係を探る
今回、「緩和ケアに関する講義をあちこちでされていた」などという記述を見たので検索してみると『緩和ケア』(青海社)という雑誌で、Volume 17 Number 2 MARCH 2007からVolume 17 Number 4 JULY 2007の3号にわたって「私のスピリチュアルケア」という連載をもっていたことがわかった。この雑誌はターミナルケアに携わる方にはそれなりに知られた専門誌のようだ。この連載を「実績」ととらえたのだろうか。


amazonでは、「この商品を買った人はこんな商品も買っています」というところに、江原の著作がずらずら並んでいる。
緩和ケア 2007年 03月号魚拓


講演はひとつだけ見つけた。NPO法人 日本ホリスティック医学協会のシンポジウムだ。役員に学者さんがぞろぞろと名を連ねている団体だが、サトルエネルギー学会の大会を共催したりしている。いやまあ、設立主旨を見ると、そんなに悪質には見えないんだけどね……。


ホリスティックシンポジウム2007大阪
ホリスティック医学とスピリチュアルヘルス
http://www.holistic-kansai.com/symposium2007.html


シンポジウムの内容を紹介しているブログ記事があった。


http://www.stepup-corp.com/blog/001/post_122.php


穏当なことを言っているようだ。『信じぬ者は』でも指摘されていたが、本当にマーケティングがうまい。


学部長はおそらく福祉に関する学究か実務家だろう。どう考えているのだろうか。旭川大学のwebサイトで学部に関する情報を見てみたが、学部長はわからなかった。4月から開設されるというのだから、まだ決まっていないとは考えられない。ていうか、教員がぜんぜん公開されていないんですね。珍しいような……。